| ◎ 1918年11月11日 第一次世界大戦終結
 |  大戦の終結の後、ヨーロッパに君臨した多くの王朝が崩壊した。 この時から、各地で人々は民族の自立を求め始めた。
 | 
    
      | ○ アルメニア難民(1918年) | ノアの方舟が漂着したと伝えられるアララト山を囲むようにあった国。当時は、北のロシアがこの地域を治めていた。 しかし、南のトルコのオスマン帝国と領土を巡って争っていた。そして、アルメニア人達の住む地域は、民族のシンボル・アララト山付近を境にして分割され国境線が引かれた(1915年)。聖地エチミアジンはロシア領となった。オスマン帝国は新しい国境線の南のトルコ領にいるアルメニア人達を追放し強制移住させた。砂漠を越えての移動は壮絶を極めた。飢餓や病気、虐殺などが多かった。約150万人が命を落とした。(現在のトルコ政府は、このことを認めていない) オスマン帝国側から非難して、現アルメニアの「未来村」にたどり着いた。現在、その末裔達が住んで居る。希望を未来に託して、村の名前が付けられたという。
 ***************
 現アルメニアの西はアゼルバイジャン。この中にアルメニア人達の住む地域があり、1992年以来、現在(2009)まで国境を巡る争いが続いて居る。現在までに死者およそ3万人。アルメニア国内に住む人々の約二倍の人々は、国外で生きている。
 
  崩壊寸前のオスマントルコ帝国から逃れて・・・・・。イスラム教徒が多数を占める帝国の中で、彼らはキリスト教を信じる者達であった。
 トルコ領に進駐するイギリス軍(1918年)は、彼ら難民の身体検査をするという名目で、徴兵検査を行った。難民を自分の軍隊に組み込んだ。
 当時、採油量は世界のおよそ半分を占めていたバクー油田。この油田の利権を手に入れることが、イギリスの軍隊派遣の目的であった。
 
 | 
    
      |  |  | 
    
      | ○ ロシア難民 (1921年頃) 
 
  塩漬けの人肉を売買
 
 
  難民の死:飢えと寒さ
 
 | 300年続いたロシア帝国が崩壊(1917年)。ロシアでは、レーニンが率いる共産党政権が生まれようとしていた。革命後も各地で内戦が続いていた。 ロシア難民 ・・・革命の混乱と共産党政権の農業政策の失敗によるものが、難民を産んだ主な要因であった。
 この時、記録的な大寒波がロシアを襲った。難民は辛い生活と移動を強いられた。
 極地探検家で知られるフリチョフ・ナンセン(初代難民高等弁務官)は、現状を事細かく調査し、この状態を国際舞台で訴えた。かれは、今も尚、難民の父と語り継がれる人物である。
 
 
        
          しかし、この時、欧米諸国の多くがロシアの共産政権に経済封鎖をしていた。
            | 「ナンセンの語録」より 「わたしはこの目で見てきました。ロシアの市場では、公然と塩漬けにされた人肉が売られています。
 数百万もの人間が飢えと寒さで残酷なほどゆっくりと死を迎えているのです。今、我々は一人になって考えるべきです。何もしないで見ていることが果たして許されるでしょうか。ロシアのすさまじい冬は刻一刻と近づいています。もう一刻の猶予もないのです。」
 |  ジュネーブで行われた国際連盟総会(1921年)・・・ナンセンは難民救済を強く訴えた。
 
        
          欧米諸国は最後まで積極的な援助を申し出る国はなかった。
            | 「ナンセンの語録」より 「これ以上何ヶ月もかけて議論するのは止めて頂きたい。
 こうしている間にもロシアの人々は息絶えているのです。
 皆さんにも家族は居られるでしょう。
 自分の妻や子どもたちが飢えて死ぬのを見ているのはどんな気持ちでしょう。
 それでもソ連政府を助けるくらいなら、2000万人の人々が餓死した方がよいと言い切れる人がいるでしょうか。そうだというならこの場ではっきりと申し出て頂きたい。」
 |  革命から5年・1922年には、飢えと寒さで難民はおよそ900万人が亡くなったと言われている。
 
 | 
    
      | 
        
          
            |  |  |  |  |  
            | 飢えて凍死した難民 | 難民の死体・累積 | ナンセン・国際連盟総会 | 難民が住んでいた村・誰もいない |  | 
    
      |   | 
    
      | ◎ 純血主義ヒットラー | ヒットラーは、ドイツ民族だけによる強いドイツの復活を目指した。 一民族一国家主義
 | 
    
      | 1938年チェコ ズテーテン地方 | ☆ 「アドルフ・ヒットラー語録」より 「我々は優秀なるドイツ民族にふさわしい領土を確保すべきである。
 自らの民族のために流す血は必ず正当化される。例え今一人の血が流されても、将来においてドイツを担う千人の子どもの血が流されないのであれば、それは必ずや賞賛され、責任ある政治家というものは例え現在に置いて攻撃されようとも何時かは無罪判決を勝ち得るのである。」
 | 
    
      |   | 
    
      | 1939年 第二次世界大戦勃発 
 
  
 
 
 1942年 イラクの砂漠地帯を行く
 
 ポーランド難民
 | ポーランドを二つに分割。 
 
  
 ・・・ポーランド西を追放された人々は、
 当然、追われて難民となった。ポーランド難民。
 
 
        
          
            | ☆ 「ポーランド難民の証言」(女性)より 「ドイツ兵はあの時地下壕にかくれていた私たちを見つけると手榴弾を投げ込みました。
 煙が立ちこめ父が外に出たとき、銃声がきこえたのです。
 血の海にうずくまっている父。母とわたしは声を上げて何時までも泣いていました。」
 |  1942年 イラクの砂漠地帯をポーランド難民は行く。4,000Km野道乗りを経てこの地に辿り着いたのだ。
 こうしてナチスは、ここを占領してドイツ人を住まわせた。ドイツ領オーストリアにも同様に行った。
 | 
    
      | 占領地に入るドイツ人。追い出されて難民となり、その場所にはナチスドイツの旗が立てられた。 
   | 
    
      | ◎ ユダヤ民族 1930年代 
 
  この頃は、平和だった。
 
 
  楽しく”自由”を唱う。
 
 
  愛人の撮影による映像。
 
 
  植民地大臣のチャーチル。
 
 
  ユダヤ人狩りが始まる。
 
 
  連行されるユダヤ人。
 | 1930年代 ワルシャワ 300万人のユダヤ人が暮らしていた。(彼らはユダヤ教)
  「我らの胸に ユダヤの魂が脈打つ限り
 我らの目が 東の彼方  シオンの山に注がれる限り
 我の古き望みは 決して忘れることはない
 我が希望 それは我が父
 ダビデの地に帰ることだ」   題名:『自由』 →後に、ユダヤの国家となる。
 
  ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に暮らして、自分の国の創設を悲願としていた。
 しかし、これらのすべてををヒットラーは打ち砕いた。
 ドイツ民族の純血主義を叫ぶヒットラーにとって、ユダヤ人は最も排除すべき民族であった。
 
 
        
          
            | ☆ 『わが闘争』より 「金融界を独占するユダヤ人は、ドイツ経済の破壊をたくらんでいる。
 しかも、寄生虫であるユダヤ人は、ドイツの若いブロンド娘を辱め、掛け替えのない優秀な血を汚し続けているのだ。
 先の大戦でドイツが敗れたのは、我々ドイツ人の血の純潔が守れなかったからである。
 戦争に入る前に我々はユダヤ人を毒ガスで殺してさえ置けば、斯くのごとき屈辱を受けることはなかったのである。」
 
 |    ヒットラーは、政権を握ると、法律によってユダヤ人の財産の没収を認めた。捕虜は金品を没収され、強制収容所に送られた。27万人のユダヤ人がパレスチナに逃れた。
 
  1920年代、ここパレスチナには国家を持たない二つの異民族が共存していた。アラブ民族とユダヤ民族であった。
 首都エルサレムはアラブ人が信じるイスラム教の聖地であった。また、ユダヤ人にとってもこの地はユダヤ教の発祥の地であったのだ。
 ここを統治していたのは第一次大戦後に進駐したイギリスであった。
 当時の植民地大臣をしていたのはチャーチルであった。彼は、1921年にここに訪問した。
 
 
        
          
            | ☆ 『チャーチルの演説録』より 「ユダヤ民族とアラブ民族は共存できるか、大英帝国はこの問題を誰をも傷つけることなく公平に取り扱うことを約束する。
 世界に散っているユダヤ人が民族的な郷土を持ちたいと願うことは至極当然である。だが、それによってアラブ人が苦しめられたり追い立てられたりするようなことがあってはならない。
 アラブ人は何も恐れなくてもよい。大英帝国はユダヤ人の入植をコントロールして行くからだ。
 ユダヤ教の聖書にもあるように将来必ずやパレスチナはミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう。」
 |  1921年 この頃は、ユダヤ人の結婚式はアラブの伝統に則って行われ、それに多くのアラブ人も参列した。この時期の両民族の関係がこれでうかがわれる。しかし、
 1930年代 アラブ人によるデモが行われた。ユダヤ人の急増はアラブ人の危機感を次第に煽るようになった。
 両民族の衝突が始まった。イギリスは、相次ぐ暴動を取り締まるために、ユダヤ人の移住を厳しく制限しだした。
 ユダヤ人は猛然と反発しだした。
 
 
        
          
            | ☆ 当時のユダヤ人指導者の一人ワイズマン博士は、ユダヤ人集会で、 「我々ユダヤ人は他国の助けを断じて受け入れない。自らの手で我々は自由を手に入れるのだ。
 イギリスは我々をちっぽけな民族と思っているだろう。
 しかし、歴史はユダヤの正義を何時の日か証明するのだ。」 と・・・。
 |  
        
          
            |  |  |  |  |  
            | ワイズマン博士 | 「我々ユダヤ人は・・」 | アラブ人によるデモ | アラブ人によるデモ |  
 1930年代 ワルシャワ 300万人のユダヤ人が暮らしていた。(彼らはユダヤ教)
  「我らの胸に ユダヤの魂が脈打つ限り
 我らの目が 東の彼方  シオンの山に注がれる限り
 我の古き望みは 決して忘れることはない
 我が希望 それは我が父
 ダビデの地に帰ることだ」   題名:『自由』 →後に、ユダヤの国家となる。
 
  ユダヤ人は、ヨーロッパ各地に暮らして、自分の国の創設を悲願としていた。
 しかし、これらのすべてををヒットラーは打ち砕いた。
 ドイツ民族の純血主義を叫ぶヒットラーにとって、ユダヤ人は最も排除すべき民族であった。
 
 
        
          
            | ☆ 『わが闘争』より 「金融界を独占するユダヤ人は、ドイツ経済の破壊をたくらんでいる。
 しかも、寄生虫であるユダヤ人は、ドイツの若いブロンド娘を辱め、掛け替えのない優秀な血を汚し続けているのだ。
 先の大戦でドイツが敗れたのは、我々ドイツ人の血の純潔が守れなかったからである。
 戦争に入る前に我々はユダヤ人を毒ガスで殺してさえ置けば、斯くのごとき屈辱を受けることはなかったのである。」
 
 |    ヒットラーは、政権を握ると、法律によってユダヤ人の財産の没収を認めた。捕虜は金品を没収され、強制収容所に送られた。27万人のユダヤ人がパレスチナに逃れた。
 
  1920年代、ここパレスチナには国家を持たない二つの異民族が共存していた。アラブ民族とユダヤ民族であった。
 首都エルサレムはアラブ人が信じるイスラム教の聖地であった。また、ユダヤ人にとってもこの地はユダヤ教の発祥の地であったのだ。
 ここを統治していたのは第一次大戦後に進駐したイギリスであった。
 当時の植民地大臣をしていたのはチャーチルであった。彼は、1921年にここに訪問した。
 
 
        
          
            | ☆ 『チャーチルの演説録』より 「ユダヤ民族とアラブ民族は共存できるか、大英帝国はこの問題を誰をも傷つけることなく公平に取り扱うことを約束する。
 世界に散っているユダヤ人が民族的な郷土を持ちたいと願うことは至極当然である。だが、それによってアラブ人が苦しめられたり追い立てられたりするようなことがあってはならない。
 アラブ人は何も恐れなくてもよい。大英帝国はユダヤ人の入植をコントロールして行くからだ。
 ユダヤ教の聖書にもあるように将来必ずやパレスチナはミルクと蜜が流れる永遠の地として発展するだろう。」
 |  1921年 この頃は、ユダヤ人の結婚式はアラブの伝統に則って行われ、それに多くのアラブ人も参列した。この時期の両民族の関係がこれでうかがわれる。しかし、
 1930年代 アラブ人によるデモが行われた。ユダヤ人の急増はアラブ人の危機感を次第に煽るようになった。
 両民族の衝突が始まった。イギリスは、相次ぐ暴動を取り締まるために、ユダヤ人の移住を厳しく制限しだした。
 ユダヤ人は猛然と反発しだした。
 
 
        
          
            | ☆ 当時のユダヤ人指導者の一人ワイズマン博士は、ユダヤ人集会で、 「我々ユダヤ人は他国の助けを断じて受け入れない。自らの手で我々は自由を手に入れるのだ。
 イギリスは我々をちっぽけな民族と思っているだろう。
 しかし、歴史はユダヤの正義を何時の日か証明するのだ。」 と・・・。
 |  
        
          
            |  |  |  |  |  
            | ワイズマン博士 | 「我々ユダヤ人は・・」 | アラブ人によるデモ | アラブ人によるデモ |  | 
    
      | 
        
          
            | 「探検世界遺産」 ー記憶の遺産ー アウシュビッツ   NHKによる放映   ’09.3 |  
            | 1945年1月27日、敗走するドイツ軍を追ってポーランド南部のアウシュビッツ収容所に達したソビエト軍は、想像を絶する光景を目の当たりにした。 犠牲者の女性の髪。その量は7tを超えていた。
 靴など、膨大な数の遺品は犠牲のごく一部だった。
 ここで何が起きたのか?
 生還者の証言によって事実が明らかにされていった。
 (囚人のように、収容された人々の腕には番号の入れ墨が・・・。)
 
 
              
                
                  | ポーランドの古都プラトスから西へおよそ50kmの所にあるアウシュビッツ収容所の出来事である。 |  
                  | ナチスドイツは人種主義政策の名のもと、<アウシュビッツU:ビルケナウ)ブジェジンカ・アウシュビッツT(基幹収容所)オシフィエンチム>三つの区画からなる広大な収容所にユダヤ人・ポーランド人・ロシア人・身体障害者・同性愛者・戦争捕虜などを、ヨーロッパ全土28カ国から集めて、その絶滅を図った。 ナチスドイツの戦争犯罪全体を象徴する最大規模の収容所として保存されている。
 |  |  
            | アウシュビッツ第一収容所に掲げられた標語は、「ARBEIT MACHT FREE(働けば自由になる」だった。ここは6000Vの 高圧電流が流れる有刺鉄線に囲まれた収容所の入り口を入る。 最初の囚人が連行されたのは、1940年6月だった。それはポーランドの政治犯であった。
 28有った収容所の多くは、現在夥しい遺品や文書・写真などを展示する博物館として解放されている。記憶を風化させず、引き継ぐためにはどうすればよいか。
 ここには、犠牲者の遺品の一部が、発見された時と同じ状態で積み上げられている。
 沈黙する遺品によって、事実を語らせる展示である。  <膨大な数の靴>
 
              
                
                  | 
                    
                      
                        | ソビエト軍が到着する直前、ナチスドイツは、犠牲者の日用品などを集めた倉庫に放火し、証拠を消し去ろうとした。 当時のソビエト軍の調査報告書によれば、大人の服百八万三千着、子供の服十一万五千着・眼鏡一万二千九百個、カバン三千百六十個、歯ブラシ九千九百本などが、焼失を免れて残っていた。靴は、二年前の再調査で、解放直後の報告書にあった4万3千足を遙かに上回り、8万足に達していたことが解った。
 文書の多くが焼かれ、ナチスドイツが行った殺戮の全貌は未だに明らかではない。
 犠牲者の正確な数は解らず、少なくとも百十万人と推定されている。
 <靴・髪の毛の山>
 |  |  |  
        
          アウシュビッツは、戦後間もない1947年ポーランドの国立博物館となった。
            | アウシュビッツU: ビルケナウ収容所
 | アウシュビッツU:ビルケナウ収容所の面積は140ha。 ここは、ユダヤ人の大量輸送に供えて増設された施設である。
 ここには300の収容棟に加え、大規模なガス室、死体焼却施設を供えた、「絶滅収容所」であった。
 ガス室・死体焼却炉は、ナチスドイツによって撤退直前に爆破された。
 殺戮と証拠隠滅という二重の犯罪を伝える場所としてそのまま保存されている。
 今は、一見のどかな平原に見えるが、ここで何が行われたのか?
 ここに訪れは人々はゆるがない証拠を突きつけられる。
 それは、囚人が命がけで隠し撮りした三枚だけ残る写真である。
 写真は、殺された仲間が、ここで焼かれたことを示している。
 現在の展示館の展示方法を発案したのはカジミェン・スモーレン(元アウシュビッツ博物館長)さん(87歳)だ。
 戦後35年間、管長を務め、世界遺産への登録を実現させた人物である。自身もアウシュビッツから奇跡的に生還した人物だ。彼の腕には、囚人番号は1327と、入れ墨が消えかかってはいるが見える。
 
              
                
                  | 
                    
                      
                        | 「収容所にいる時、すでに私たちは話し合っていた。もし生き延びることができたら、ここで行われた事実を証言しなければならない。それは死んでいった者への義務なのだと・・・。収容所においては、この思想がずっと引き継がれていったのだ。戦後解放された我々は、数百万の使者の追悼のためにも、この場所は記憶の場所として保存されるべきだとポーランド人に提案した。当時の国会はすぐにそれを決定してくれた。」 |  |  |  | 
    
      | 
        
          
            | 世界遺産 登録を申請
 
 
 
 
 <収容所入り口の場面>
 | スモーレン氏たちは、1978年、アウシュビッツの世界遺産登録を申請した。 世界遺産にはいくつもの基準が設けられている。文化遺産の登録基準は、主に人類史上類を見ない傑作や、文化的価値の高い建築物などに焦点が当てられていた。
 その中に、アウシュビッツの登録を前提に加えられた基準がある。
 登録基準Xである。「顕著で普遍的価値を持つ出来事や思想」・・・この基準を提唱したのは、 クシスト・パブオフスキ(元ICOMS副議長 ワルシャワ工科大学教授)である。
 彼は、ポーランド人で、登録審査機関の副議長をしていた。
 「私がそのような新しい登録基準を提案したのは、それまでの基準では、文化でも自然でもない歴史という要素が、世界遺産の価値として決定的に欠けていると考えたからだ。美しくも建築的価値もないアウシュビッツを世界遺産に推薦する行為が認められにくかった。人類の文化が否定された場所だが、保存し続けようとする人間の行為そのものは、確実に文化の一部なのだ。」
 登録が議論された第3回委員会には、ドイツも参加していた。
 ゲオルグ・ミルシュ(元世界遺産委員会・西ドイツ代表)は、「どの国も自分の国をよく見せたい。自分の国を神秘化したいという大きな誘惑を持っている。ドイツも又同じだった。しかし、アウシュビッツのような歴史の遺産においては、そのようなことは全くできない。そこには犯罪者の記憶と犠牲者の記憶が二重に折り重なっている場所であった。私たちは犯罪者の罪を肩代わりできない。しかし、罪ではなく記憶を背負っていくべき責任がある。」
 クシスト・パブオフスキ(元ICOMS副議長 ワルシャワ工科大学教授)「自分は、歴史的建造物の修復の専門家である。専門家として、形として遺っているものを扱っている。しかし、形がすでに失われていても、記憶と固く結ばれているかも知れない痕跡を守る義務があるのだ。アウシュビッツ収容所で命を落とした100万人以上の人々が、死を目前にして浮かべた最後の思いは、きっと、遺されたものの何処かに、影を落とし形として刻まれていると思う。それはまだ我々が全く気がつかない所にあるのかも知れない。だから、我々はあの場所を守っていかなければならないのだ。」
 |  
            | 遺品の修復 | 2003年アウシュビッツ博物館は、収容所跡地の一角に遺品の本格的な修復を行う施設を開設した。 金属・紙・石・革製品など・・異なる素材の専門家が8人集まっている。
 酸化して破損した文書は、洗浄液に漬けて中性化する。紙の性質を科学的に分析し補修。
 繊細な作業に使われるのは日本の和紙である。一枚の資料の修復が完成するのに数週間が必要である。修復予定の資料は,三万七千枚ある。
 三年がかりのプロジェクトである。
 靴などの遺品は囚人が受けた扱いを物語る証人である。傷や汚れはそのままに当時の状態は保たねばならない。作業の中で60年ぶりの発見もあった。
 
 
              
                カジミェン・スモーレン(元アウシュビッツ博物館長)「新たな戦いの時が来た。
                  | 
                    
                      
                        | 「最近、一つの靴の中からハンガリー紙幣二枚が出てきた。 表に名前の書かれた靴も発見された。
 これをもとに遺された文書から名前をたどり、持ち主が発見された。
 何処からいつ連れてこられたのか?その後どうなったのか解った。
 幼いユダヤ人の女の子で、当時8歳であった。ハンガリーから連行され、収容所到着直後になくなっていた。」   ・・・・・・・修復員
 |  |  保存はとても困難な作業だ。
 しかし、皆、この場所を永久に守り伝えていくという哲学を持ち、保存のために戦っているのだ。」
 |  
        
          
            | 63年目の 解放記念日
 | '09年1月27日、アウシュビッツ収容所は、63年目の解放記念日を迎えた。 ブルケナウにおいて解放記念式典が催された。
 ここに生き証人達が仲間を追悼するために集まってきた。当時の囚人服と同じような縞模様のスカート、これは自分たちが元囚人であることを示している。
 追悼式に集まった元囚人はおよそ70人。
 その中に,収容所から脱走に成功した一人のポーランド人がいた。
 彼の名前は、アウグスト・コヴァルチク氏(86歳)であった。彼は、収容されていた1年余りの間に,数々の拷問を受け、過酷な懲罰労働を強いられた。
 アウグスト・コヴァルチク氏「最初の貨車で連行された仲間は、もう、僕しか来ていないようだ。これからだんだん少なくなるよ。」と、集まった囚人仲間達と話していた。
 |  
            | コヴァルチク氏 (86歳)
 
 
 
 
 
 <アウシュビッツT「死の壁」>
 
 
 
 
 <線路の場面>
 | 彼は、1940年ナチスドイツに抵抗するパルチザン活動に加わったとして捕まり、アウシュビッツに収容された。 収容所開設のわずか半年後であった。囚人番号:6804。
 アウグスト・コヴァルチク氏
 「私の最初の体験をお話ししましょう。門には『働けば自由になる:ARBEIT MACHT FREI』と掲げてあった。収容所の所長は、歓迎の挨拶としてこういった。『君たちはドイツ第三帝国の敵である。君たちはここで労働し、規律や規則を守らなければならない。それが嫌な者にも出口はある。それは煙突を通って出ることである。』・・・、そう言ってかれは死体焼却所の煙突を指さした。」
 
 死の壁と言われた場所、この中庭は、数多くの囚人が銃殺された場所であった。
 中庭の隣に建つ11号棟は、ガスによる最初の虐殺が行われた場所であった。拷問のための牢獄に通じる空気穴は、上部に小さな穴が開いていたが、冬、雪が積もりそれが凍ると穴が塞がるように作られていた。
 11号棟の地下は、「窒息牢」と呼ばれる20号室があった。
 それはおよそ3m四方の空間に多くの囚人を押し込め、重い木の扉で密閉された。外の空気穴につながっているのは、10cm四方の穴一つのみであった。
 木の扉に遺る、囚人達のもがき苦しんだ爪痕が、痛ましい。
 11号棟の屋根裏は、アウグスト・コヴァルチク氏が拷問を受けた場所であった。
 仲間の一人が脱走したことに対する懲罰であった。
 拷問は一時間半に及んだ。屋根裏の柱の上部に二本の釘が打たれていた。
 アウグスト・コヴァルチク氏「後ろ手に縛られて宙づりです。宙づりされた囚人の足と天井の床との間は15cm程離れていた。16人が吊された。腕の痛みは激烈だった。その時仲間の一人が絶叫した。『おふくろの馬鹿野郎!なぜ俺を生んだ!』と。そう言って、彼は気絶した。私たちは同じ思いを抱くかも知れない。人間はこんなことができるものなのか?!と、・・・・・・。それは、歴史が教えてくれるのみだ。民族主義的イデオロギーが、人間性を打ち破るほど優先され、正当化される度、人間は人間に対して,このようなことができるのだ。」
 
 |  
        
          
            | 第二収容所・アウシュビッツ=ビルケナウ | コヴァルチク氏は、増設されたばかりの”死の工場”・第二収容所・アウシュビッツ=ビルケナウに移送された。 彼は、人間が生きる限界以下に食料を減らされ、懲罰労働班に組み込まれた。
 収容所の排水溝を掘る過酷な日課は、労働による絶滅を狙った緩慢な“死刑”だった。
 労働に耐えられても、突然に呼び出され銃殺されるものが相次いだ。
 徐々に殺されるか、即座に殺されるか、当時500人ほどいた懲罰労働班の囚人達の中には、生き残る可能性がすべて絶たれたことを知り、抵抗して殺される路を選んだ者もいた。
 コヴァルチク氏は、“死”を決意して集団脱走に加わった。
 |  
            | 集団脱走 | アウグスト・コヴァルチク氏「この土手の上にドイツ兵が五人、森の向こう側にも五人、・・・・、私たちはその谷間で溝を掘っていた。 労働終了を告げる笛の音が、“脱走”の合図だった。
 ドイツ兵は、逃げる私に発砲し続けた。10歩の距離、6歩の距離。・・・。
 だが、弾はあたらなかった。私は逃げる方向を切り返した。
 すると、ドイツ兵は、別の囚人を追った。この時に生き残った仲間がいた。彼は収容所で、父親と一緒だった。
 彼は逃げたが、途中で父親を見失った。振り返ると、溝の中で父親が彼に向かって十字を切っていた。そして『走れ!』と、手を振った。蒸すが駆け戻ろうとしたからだった。
 彼はそれを見て、踵を返して再び走り出した。・・・・。
 翌日、父親は残った仲間と共に裸にされてガス室に送られたのだった。
 彼らは、共に戦った仲間であると今も思っている。・・・・。決定的な死を前に、抵抗して『死のう!』と思ったのであった。」
 |  
            | 納屋の屋根裏 | 追跡を逃れた彼は、収容所から10kmはなれたボイショヴィ村まで辿り着いた。 麦畑に身を潜めた彼は、ある家族に発見された。そして匿われたのはその家族の納屋の屋根裏であった。
 無事に脱出できるまでの七週間、周囲に数多くのドイツ人住民が居る中、家族は命がけで、秘密を守ってくれた。
 彼の命を救ったポーランド人の家族は、当時、二人の息子をドイツ軍にとられ、危険な前線に送り込まれていた。家族の一人の女性(ルジャ・シクロジェ)が現在もカイコヴァ通りに暮らしていた。
 この人が、危険を冒して納屋に食事を運び続けたのだった。
 ルジャ・シクロジェ「あの時、私がいくつだったか覚えてる?14歳になる少し前だったわ。今年、8月まで生きていれば、80歳よ。七つ違いね?!」
 アウグスト・コヴァルチク氏「私の父は、90歳を過ぎた時にこう言っていた。『神様は、お召しになるのを忘れたぞ!』とね・・・。」
 ルジャ・シクロジェ「私は、収容所の町まで、姉と自転車で通っていた。囚人達が並んで歩かされていた。・・・。それは本当にかわいそうで、・・・・。木靴を履いて痛ましかった。監視は,皆、銃を持っていた。中に入ることはもちろん、眼を向けることも禁じられていた。戦後、私たちがそこに行ってみると、殺された人たちが、まだ、道ばたに横たわっていた。
 一人の女の人が、小さい鍋を持ったまま血まみれで亡くなっていた。
 貴方が生きているのを見てうれしいです。」
 アウグスト・コヴァルチク氏「僕は、ここでもう一度生んでもらったんだ。ボイショヴィ村で・・。この女性の存在こそが、『人間は信じられるか』という問いへの答えだ。」
 ルジャ・シクロジェ「戦後、皆に笑われたわ。『匿(かくま)ったことがバレていたらお前も煙にされていたな』って。」
 脱走を試みたおよそ100人の内、成功したのは5人だった。
 コヴァルチク氏は,戦後、脱走の報復として300人がガス室に送られたことを知った。
 |  | 
    
      | 
        
          
            | かつて 私は知らなかった 
 地上に於ける私の居場所は、
 庭先の菩提樹の木陰には無く
 四方を壁に囲まれた温もりの中にもなく
 笑いに囲まれた場所にも無く
 市場からパンの香りが漂ってくるような
 
 そんな
 安全な国の中にもないと言うことを・・・。
 やっと最後の時を迎えて
 
 お前はこの地の一員となる
 この石ころの一つに・・・
 それがお前の運命なのだ。
 
 けれども私には 記憶が残った
 そして私は戻ってきた
 
 なぜなら 私はここに属しているから・・・
 ここが地上の
 私の場所だ!
 ・・・・・・・アウグスト・コヴァルチク
 |  | 
    
      | ◎ 同じ頃の、スターリン 
 | 同じ頃、スターリンは ソ連共産党を頂点とした巨大な多民族国家を作ることが目標であった。 1939年 彼は、ポーランドに住むウクライナ人の開放を掲げてポーランド東部を占領。共産化を進めた。
 ベロモルスク強制収容所・・スターリンに背くものは容赦なく送り込まれた。
 
  1930年代 数多くの異なった民族を抱え込んだ。その数は2300万人。それは後にソ連の民族問題をより複雑なものとしていった。
 | 
    
      |   |  | 
    
      | ◎ ユーゴスラビア分裂 | 5年前にセルビア人の骨が50年ぶりに大量に発掘された。 この第二次大戦中の惨殺が、同じ国に住むクロアチア人によって成されたと報道された。
 | 
    
      | 
        
          
            | 惨殺・復讐・怨念
 | セルビア人とクロアチア人の怨念の対立は今に始まったことではなかった。
 |  
        
          
            | セルビアの独裁政治 
  
 
  国王アレキサンドル一世
 
 国王アレキサンドル一世の暗殺
 
 
  ヒットラーの別荘を訪れ
 
 
  
 クロアチア独立国の樹立
 
 セルビア人狩り
 
 
  セルビア人の処刑
 
 
  初代大統領 チトー
 
 1945年 第二次世界大戦終結
 
 
  | 五つの民族が混在した多民族国家ユーゴ(現セルビア・モンテネグロ)その主要民族がセルビア人とクロアチア人であった。第一次大戦後、民族の平等と融和を掲げて誕生した。しかし、セルビア人とクロアチア人は宗教も文化も異なり、このことが民族対立の火種となったのである。
 1930年代 アレキサンドル一世が国王となる。 この頃からセルビアの独裁政治が色濃くなって行く。
 
  1934年 国王アレキサンドル一世のフランス訪問。国王暗殺がなされた。
 犯人を手引きしたのはクロアチアの民族主義者だと言われている。
 
  クロアチアでは、30年代後半反セルビアを掲げる軍事勢力が台頭した。
 パパリッチ将軍は、1941年、ナチスドイツを背景にクロアチアの独立を宣言して政権の座についた。
 クロアチア独立国が樹立された。
 
 ☆ パパリッチ将軍は
 
 
              
                
                  | 「我々クロアチア人は、絶え間なく屈辱に耐えてきた。今こそ、我が民族のために戦わなくてはならない。」 |   と、・・・。
 しかし、セルビア人はクロアチアの独立を認めなかった。ベオグラードでデモ行進。
 クロアチアはドイツ(ヒットラー)との関係をさらに強化した。ヒットラーの別荘を訪れてこの時パパリッチはドイツとの軍事同盟を締結させた。
 その直後にセルビア人狩りが始まった。・・・・強制収容所に送られるセルビア人(ヤセノバツ収容所)
 
 
              
                
                  | ☆ 「クロアチア人神父の証言」より『この国にはクロアチア人しか住むことが出来ない。
 わたしは老人から子どもそしてセルビア人が育てた家畜に至るまできれいに片づけるつもりだ。
 わたしが神父の格好をしているからといって機関銃を乱射しないと思ったら大間違いだ。
 わたしはクロアチアに反するものは何でも殺してやる。
 それが例え7才の少年であっても汚れたセルビアの血が流れているものは浄化しなくてはならないのだ。』
 |    ヤセノバツ収容所は、ドイツのユダヤ人収容所をモデルに創られた。
 
              
                
                  | ☆ 「セルビア人の証言」 『食べ物もろくに与えられなかった。仲間同士で自由に話すこともできなかった。
 わたしは何度もクロアチア人の兵士が我々の仲間の歯を調べている光景を見た。彼らは金歯がないかを調べていたのだ。
 見つかればその仲間は即座に殺された。クロアチア人にとって、我々セルビア人よりも一本の金歯のほうが価値あるものだったのだ。』
 |   セルビア人の処刑は頻繁に行われた。5年前に封印が解かれて初めて公開された映像が示していた。セルビアは、戦後、ヤセノバツで70万人が虐殺されたと発表。これに対してクロアチアは「それは誇張に過ぎない」と反発している。
 1945年 第二次世界大戦終結。 世界中が新しい秩序を模索し始めた。
 
 ○ ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)初代大統領 チトー
 ドイツ抵抗運動を指揮したチトー
 かれは、ドイツを後ろ盾にして成功したクロアチアを取り消し、再びユーゴ連邦の中に組み込んだ。
 セルビア人に尋問されるクロアチアの女性は、頭髪を刈り取られたり、顔に黒く色を塗られたりして虐待された。クロアチア兵士は見せしめに行進させられた。
 |  | 
    
      | ◎ 朝鮮半島から 引き上げる日本人
 |  | 
    
      | ◎ 1947年8月インド分離独立 | インド分離独立 ・・・これによって1500万人の難民。 世界各地で新たに生まれた難民。
 降伏後、ドイツから祖国に帰る人々。
 東部戦線から引き上げるソ連兵士。
 ドイツ人引き揚げ者はおよそ1300万人。
 西側へ移住するポーランド難民。
 戦後ヨーロッパを移動した難民は推定2100万人。
 | 
    
      | ◎ ユダヤの執念 | 砂漠の鉄条網 | 
    
      |  | 
    
      |  |  |