思索の庵ー7
編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
 書物の中で、感動を受けた言葉や章を、ご紹介させていただきます。
 少しづつご紹介し、必要なら感想も述べさせていただきます。



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"The hermitage of the speculation"

 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・・。 
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 法句経(ほっくきょう)=ダンマパダを覗くの巻     1月11日 
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  一燈を頼め  

      
一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜を行く。暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ。

   
(た)だ一燈を頼(たの)め。

提一燈。行暗夜。勿憂暗夜。只頼一燈。
                              ・・・・・・・ 「言志晩録」 林 一斎

   
ここで暗夜というのはお先真暗な人生行路をいっているのであり、一燈とは自己の堅忍不抜の向上心ではなかろうか。・・・。

 弟子の阿難が、釈尊に最後が間近いことを知って、
 
 「私はこの先、誰に頼ったらよいのでしょうか」と泣きながら訴えた。

 釈尊はいわれた、
「阿難よ、汝自らを灯火とし、汝自らを依り所とせよ。
 他を依り所とするな。真理を灯火とし、真理を依り所とせよ。」
  と。

 法句経 (160) に 歌っていう。

「おのれこそ  おのれのよるべ    他の誰に たよられようぞ

   よくととのえし  おのれこそ    まこと得難き よるべなれ」
                 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)
                            
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  同 訳;

「おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて誰によるべぞ
    よくととのえし  おのれこそ
  まこと得難き よるべをぞ得む
                       詩訳 友松円諦 師
                             
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補: 法句経 157〜160(ダンマ ハダ=Dhammapada・パーリ語を漢訳したもの)の第二章に次のようにある・・
                                             「仏典をよむ2 真理のことば」  中村 元  前田専學 監修より 
 もしもひとが自己を愛(いと)しいものと知るならば、自己をよく守れ。
 賢い人は、夜の三つの区分のうち一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
 まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。
 そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないであろう。
 他人に教えるとおりに、自分でも行え・・・。
 自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。
 自己はじつに制し難い。
 自己こそ自分の主
(あるじ)である。
 他人がどうして〔自分の〕主であろうか?自己をよくととのえたならならば、得難き主を得る。

 「夜の三つの区分のうちの一つ」というのは、古代インドでは、夜は三つの時分があると考えていたからです。
 同時にこれは、人生の三つの時期をあらわしていました。
 ほぼ、少年期、壮年期、老年期にあたります。人生の三つの時期のうち、少なくとも一つの時期は、目ざめて修行せよという意味だといいます。

『法句経』 165から・・・ 自己について
 自己によりてのみ悪は造られ、
 自己によりてのみ染汚あり。
 自己によりてのみ悪は止められ、
 自己によりてのみ浄化あり。
 浄と不浄とは自己に属す、
 何人も他を浄化する能わず

            ・・・・『法句経』 165
 自分の判断で 悪しきことを行い、
 自分が好くように 自分の心を暗く濁らす。
 自分の判断で 悪行を止められ、
 自分の意のままに 自分の心を浄化もする。 
 浄も不浄も おのれ次第
 だれも、他者の心を浄化することはできない。

          ・・・管理人の意訳
 
     「東洋的一」 鈴木大拙著より
               
 2 本来の『自分・吾』とは何か?
 「言志後録」 ー 真己と仮己 ー  で、佐藤一斎も、次のように説いている。

 
本然(ほんぜん)の真己(しんこ)有り。躯殻(くかく)の仮己(かこ)有り。

 須
(すべからく)く自(みずか)ら認め得んことを要(よう)すべし。
              
有本然之真己。有躯殻仮己。
須要自認得。

 
訳:
 宇宙の本質と一致して、自己善悪を判断できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。
 このように自己に二つあることを自ら認めて、仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。

                        (川上正光 訳)  ・・・ 氏は、更に、次のように付記している。

付記:
  
真の自己を悟ることは一般には大変難しい問題である。これを真正面から取り組むのが禅である。
  真の自己を自覚した人は、真の自由人である。
                       ・・・と。
--------- ダンマパダ(真理の言葉または法句経) 5番  には・・・・

 「まこと この世において、怨(うら)みに報(むく)いるに怨みをもってしたならば、

    ついに怨みの息
(や)むことがない。

    怨みをすててこそ怨みは息む。

             これは永遠の真理である。」

                                   
         ・・・・・・・とあった。
 新約聖書のイエス様のように、釈迦が民衆に向かって唱うように諭した言葉であるという。
 真の自己と”法(人生の理)”を拠り所とすれば、迷いも悩みも無く「寂静
(じゃくじょう)」であるというわけである。
  さて、・・・・・、人生は、果てしない自分探しの旅。  ・・・・苦縁讃 ・・・  ところで、
 フリーライターの長谷川 綾氏は、

 
「人間が、自己の在りようを、一生かけて創造していくものであるとするならば -青春は、もっとも純粋かつ妥協なく、自己存在と向き合うときであるかもしれない。

   ー 自分は何者であるのか。
   ー なぜ生まれ、生きて呼吸し、何処へいこうとしているのか。

  その問いかけに、数学の方程式のように整然と用意された万民共通の答えなどないこと

 を知りながら、限りある自分の命を、意味あるもの、価値あるものたらしめたいと、

 人が願わずにはいられないのはなぜなのか?」

    
「Ideal Familiy」 August 2001  (医師:津田塾大卒、神谷美恵子 =らい患者のケア の紹介文)
 私は、”法句経”に大変強い興味を抱いた。・・・まだ、青春のままの脱皮できないアオムシ。 ・・・・苦縁讃

☆ 「一日一話・法句経」原訳 より   http://www.j-theravada.net/
                           ・・・(スリランカ仏教界長老 A・スマナサーラ
1945年スリランカ生まれ。13歳で得度。国立ケラニヤ大学などで教鞭をとる。1980年来日。駒沢大学大学院博士課程修了。
現在、(宗)日本テーラワーダ仏教教会にて瞑想指導と初期仏教の伝道に従事。



「法句経」原訳 A・スマナサーラ氏の解説
 [自分を拠り所とする]

 
自分こそ自分の救済者である。

他人がどうして自分の救済者であろうか。

 自己をよくととのえることで、

 得難い救済を得る。
      (160)
 「わたしは道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人ひとりの自由意思です。みずから実践して、それを体験としてつかめばよい」
 これがお釈迦さまの基本姿勢です。つねにみずからを拠り所とするのが、仏教の教えの根本なのです。

 この言葉が、前述のものと同じ意味であろうか?
 
自分の努力次第で、皆救われると説いている。

 釈迦は、自らを救済者とは言っていなかったそうだ。”指導者”と言っていた。

    ・・・  苦縁讃

 [決して失われないもの]


 
白檀(びゃくだん)、ジャスミンの花の香りは

 風に逆らっては広がらない。

 しかし、善き人の徳の香りは

 逆風にあってもひろがってゆく


   (54)













   (略) 
わたしたちは、なにかを得ることで満たされようとしています。

 しかし、得ることによって満たされようとするこころはとても弱いものです。
 財産、権力など、さまざまなものを手に入れて幸せを感ずる人は、それに「依存している」ことを意味します。

 依存しているから。それを失えば苦しみを感じるのです。

 依存によって幸せを得ようとする人は、つぎに依存するものをさがします。それにまた依存しては、失って苦しみます。
(中略)
人生はその繰り返しです。
 結局「自分のものだ」と思ってもそれらはいつかは必ず失うことになるのです。
 けれども、決して失われないものがあります。
 それは、「自分といつもいっしょにいるもの」「自分から離れずに一体のもの」ーーー「自分の人格・人徳」です。
   (略)

ひとりひとりが集合して、家庭。
そして、地域。・・・国家である。
その、ひとり一人に『己』がある。

しかし、どこかに仕舞い込んでしまっている。

日本人は、『和
(やわらぐ)を以て貴しとす』との美徳がある。

しかし、多様性の強みを忘れてしまっている。
何故だろうか?
  ・・・苦縁讃

  
また、・・・・




 [勝つ人は一人もいない]


勝利者が勝ち取るものは敵意である。

 敗れた人は苦しんで萎縮
(いしゅく)する。

 心穏やかな人は、勝敗を捨てて

安らかに過ごす。


                 (201)















      (略) 
 日本の社会は、日常の暮らしを戦いの場にしています。
 幼稚園の入園試験なども、子どもたちに、もう生きるか死ぬかと言うような戦いをさせています。そのお母さんたちも、服やブランドで競争しています。
 ただでさえ、苦しむことがいっぱいあるのに、そんな余計なことまでして、苦しみを積み上げているのです。
 それはあまりにも不幸な生き方です。
 わたしたちは「どうでもいいこと」にかこつけて、何とかして相手をつぶそうとしたり、自分の強さや正しさを示そうとします

     (中略) 
実はそれが人間のありようだからです。
 わたしたちには、無限の過去があります。さまざまな生命として、生と死を繰り返してきたのです。人間である以前の、それこそ虫であったような過去から、わたしたちは自分を守るために、相手をつぶすと言うことを繰り返してきました。
 そのため、今もって、そう言う争いの心を持ち続けているのでしょう。
 すべとのものは完全ではありません。さがそうとすれば、不完全なところはいくらでもあります。
 だから、そういう欠点だらけの人間同士が、相手の欠点を探しあってもキリがありません。
 間違いを指摘したり、相手を攻撃しても、
相手の性格が直ることは決してありません。

(略)



 
[ものに依存しない生き方]


 現世利益
(げんせりやく)に達する道と、

 涅槃
(ねはん)に達する道と、

 まったく相反する道がある。

 このことわりを知っている仏弟子たちは、

 名誉を喜ばないほうがよい。

 そして離欲の道を歩めばよい。
  


(75)









 
 「建物が必要だ。道路が必要だ。飛行場が必要だ。」
 「エネルギーが沢山必要だ。原発も必要だ。」
 「もっと経済成長が必要だ。」
 ・・・わたしたちの社会は、つくってはこわし、つくってはこわしというサイクルになっています。
 そのサイクルを止めたら駄目になってしまうと思い込んでいます。
 しかし、それは自己破壊のサイクルで、行き着くところは、地球の破壊です。
 わたしたちは「あれが欲しい、これが欲しい。」「まだ足りない。」と、走りまわっています。一時的に欲を満たしても、またさらなる欲がでてきます。
(中略)
 ずっと燃えつづける炎のようなものです。
 わたしたちは、いつも「貪・瞋・痴
(とん・じん・ち)」という煩悩の炎で燃えつづけているのです。(中略)炎は消えることなくさらに燃えて、さらに燃料を求めることになるのです。(中略)
 すべての問題はこころにあります。お釈迦さまは、この世は「現世利益に達する道」で、それは「苦しみの道」であると言われます。
 だから「涅槃(永遠の安らぎ)に達する道」を説かれたのです。
 利益を追っていたのではいつまでたっても心は平安になりません。追えば追うほど、安らぎがなくなってしまいます。
(中略)
 なにものにも依存しな
生き方こそが、「安らぎに至る道」なのです。
今の価値観を、今一度、”初期化”する必要が無かろうか? 
真理とは、『時代が違う!』といって、はね除ける問題ではない。
  ・・・苦縁讃


[不安の消えた状態が悟り]



渇愛
(かつあい)から憂(うれ)いが生じ

渇愛から恐れが生じる。

渇愛を離れたならば、

憂いは存在しない。

どうして恐れることがあろうか。

(216)


















 
生きているかぎり、わたしたちは「好き」「嫌い」という二つの感情から逃れることはできません。

 好きなものに対しては「欲しい」という欲が生まれますが、嫌いなものにたいしては「離れたい」という気持ちが生じます。
 絶えず心が落ち着かず、「なにかをしたい」「なにかをしなければ」という衝動に駆り立てられるのです。そこに憂いや不安が離れないでつきまとうのです。
 不安には「はっきりした不安」と「何となく覚える不安」というものがあります。
 「何となく覚える不安」というものは、いつもつきまとって、なかなか厄介なものです。しかし「はっきりした不安」というのは、それほど問題ではありません。
 たとえば、リストラに遭ったとか(略)原因がはっきりしているので明確な不安です。(略)ただちに答えがでなくても、かならずどこかに答えがあることはたしかです。(略) ところが「何となく覚える不安」というのは、原因がはっきりしないのでなかなか消えません。
  それどころか不安が不安を呼び、不安だけが勝手に膨張していくのです。
 人生をマラソンにたとえるならば、まさに目隠しをしたままで突っ走っているようなものです。とにかく走らなければいけない。けれども目隠ししているから、ゴールがどこにあるかも、どこまで走ったのかもわからない、という状態です。
 だから、納得がいかずに
不安なのです。それでもわたしたちはなにかに急ぎ立てられているかのように、いつまでも走りつづけてしまいます。
これがじつは生命というものの本質なのです。(略)  なにもしないでいると苦しいのです。不安でたまらないので、とにかくなにかをしようと動いています。(略)
 
苦しみから逃れるために、なんの役にも立たないことを、いろいろとやっているにすぎないのです。この不安の消えた状態が「悟り」なのです。そういう境地に至った人は、不思議な落ち着きに満たされています。
 

[自分が          

自分にたいしてひどいことをする]



敵同士、憎しみ合う同士が

とろうとする態度よりも恐ろしいことを、

(じゃ)に育った心は、

自分にたいして行うのだ。

(42)




浅はかな愚かな者たちは、

自分自身にたいして

敵のように振る舞う。

悪い行ないをして、苦難の結果を得る。


(66)


 
(略)心は、あたかも原子炉のようなものです。

 よく管理すれば、よいエネルギーとして活用できます。
 しかし、チェルノブイリの原発事故のように原子炉から放射能が漏れだしたら、人間は暮らすことができません。
 心も爆発すれば、自分自身にたいして壊滅的な被害を与えるのです。
 未熟な心は、自分にたいして敵になるのです。その敵(心)が自分にたいして、そして他人に対しても攻撃をしかけるのです。
 たとえばわたしたちの世界は、至るところで争いが起きています。(中略)

 
ただただ争いばかりだと言っても過言ではありません。
 争いが解決されないのは、自分自身(の心のありよう)に気が付かないで生きているからです。
(中略) 
 
わたしたちは、普段、自分自身に気づいていると思っていてもそうではありません。
 ほとんどの行為は、無意識のうちに行われています。
(中略) 
 心というものは、見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりすることで、いろいろな変化が起こります。
 しかし、そこにはある種の法則があります。
 それを「よく明瞭に観なさい」というのです。
 あらゆる問題は、「今、ここの自分自身」に気が付かないために起きているのです。

(略)
 [心を具体的にとらえるには]


 あらゆるもののなかで、

   先立つものは心である。


 あらゆるものは、心を主とし、

  心によってつくりだされる。


 もしも汚れた心で話したり

  行ったりするならば、

   苦しみはその人につきまとう。


 荷車を引く牛に車輪がついていくように。

     
( 1 )





     唯識論  
 
  わたしたちは、生のおおもとにある心をないがしろにしています。
 心よりもかたちあるものを大事にします。
 金や健康や建物を大事にして生きています。話したり食事したり、歩いたり仕事をしたりする働きは、心によるのです。
 人間関係がうまくいったりいかなかったりするのも、すべて心によるのです。
 どうしようもないと諦めることも、チャレンジするのも、心の働きです。
 いくら健康でも、心にストレスがたまれば健康を害します。過酷な仕事をしていても、生き甲斐をもってやっていれば疲れないものです。
 建物をつくるのは心、飛行機をつくるのは心、宇宙船をつくるのも心です。
 幸不幸、成功不成功は、心次第で決まります。心がすべての創造者なのです。
 ものごとは、無意識の心が願うとおりに進んでいくのです。心が現実をつくっているのです。
 心のなかにネガティブな志向が在れば、現実はそのようになるのです。
 「これは大変なことだから、自分にはできそうもない。」と心が決めてしまうと、もうできなくなります。
 わたしたちは、心をないがしろにしています。
 心よりもかたちあるものを大事にしています。
 金や健康や建物を大事にしています。

 これでは、物質が神様で、心は物質の奴隷になっているようなものです。
 わたしたちは、心によって生きているのです。
 心が自分の支配者であり自己の管理者なのです。    

 心はとらえ難く、

  軽々とざわつき、

   欲するがままにおもむく。

 その心は制御したほうがよい。

 よく制御した心は、

     安らぎをもたらす。

        
( 35 )

 心はあまりにもその動きが速いのです。

 瞬時に笑いが起き、ときには起こりだします。
 心の動きに気がつくのは、とても難しいことです。
 あまりにも速いので、おこったときはそれに気がつきません。
 手遅れになってから、まずいことをしたことに気がつくのです。
 お釈迦さまは「心をおさめたら、安楽をもたらす」と言われました。
 心が清らかになるように向上することが仏道なのです。
 そのためには、心というものを具体的にとらえなければなりません。
                         (略)
 [自我は苦しみを生むおおもと]





 「一切の事物は我にあらず」
     (諸法無我)

 と明らかな智慧をもって観るとき、

 人は苦しみから遠ざかり離れる。

 これが清浄なる道である。

        
( 279 )






















     我執について
 





 なにかを見たり、聞いたりするとき、
「わたしが見た」「わたしが聞いた」というように「わたし」という実感が生まれます。

 事実は、たんに「見た」「聞いた」ということがあるだけなのに「わたし」が存在し、「わたし」という固定した実体があるかのように思い込むのです。
 それが「自我」の正体です。

 「花を見た」というとき、事実としての「花」はあります。「見た」ということも事実です。それだけなのに「わたしが」という思いばかりが先立ち、「わたしが見た」「わたしが感じた」という具合に、「わたしが」という主語が一人歩きしていくのです。
          (中略)
 仏教では、この「自我」こそが、苦しみを生むおおもとになると説いています。そこをもう少し、詳しく見ていきましょう。
 「かれがわたしに挨拶をしなかった」という場合、たんに「挨拶をしなかった」というだけのことです。
 ところが、「わたしはかれの上司だ。だからかれはわたしに挨拶をするべきなのに、挨拶しなかった。けしからん」ということになりますと、そこに苦しみが生じます。
 それは「わたし」という思いが、争いをつくってしまうわけです。ですから安らぎを得る道は、この{わたし」という思いを捨てることにあります。
 わたしたちの心は、外からさまざまな情報が入ることによって、瞬間瞬間に動きだします。
 外からの情報が入る窓口は、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)と六つあります。
         (中略)
 頭にはいろいろな概念が入ってきます。情報に触れたときに、わたしたちは、そこにさまざまな価値判断を入れてしまうのです。(中略)
 わたしたちは「心地よい」とか「耳障り」だとか、主観的な価値判断を入れます。そうしてそこから、「わたしをいじめている。非難している。」とか「仕返しをしなくては」というふうに、妄想がふくらんでいくのです。それが煩悩の働きです。
 この煩悩働きを絶つには、外からの情報を得たとき、「ただ音だけ。ただ色が見えただけ。」と観ていくのです。そこに「わたし」というものをいれないのです。
(中略)
 それが煩悩の働きを絶ち、明らかな智慧を生むことになるのです。心を清らかにするには、特別な山中で修行する必要はありません。(中略)
 とかく、わたしたちの心は、ちょっとしたことで感動したり、悲しくなったり、暗くなったりしてしまいます。
 それは自動的な反応であったり、他人や外部から操られているようなものです。それは不安定な浮ついた心です。
 心を観る実践をしていると、人からなんと言われようと、誉められようがけなされようが、そのことばもちゃんと聞いて理解していて、しかも心のなかに感情の波は立ちません。落ち着いた心ができてきます。落ち着いた心ができれば、さらに心が成長していくのです。(中略)

 もっとも大切なことは、自分の心に気づくことです。そのためには衣装や道具も必要ありません。厳しい苦行も必要ありません。
 お釈迦様は、「自分の心をよく観る」という心の訓練法を教えました。自分の心に浮かぶことをよく観るのです。観ることによって、自分の心の悪いところ、性格の悪いところ、心の奥底に隠れていた悩みや苦しみは徐々に消えていきます。心というものは、外から強制的に縛りつけなくても、自分のありように気づいたら瞬時によくなるものなのです。
(略)

   
[どんな極悪人でも
     立ち直る可能性がある]



  怨
(うら)みをいだいている人びとのなかにあっても、

 われわれは安穏に生きよう。

  怨みをもっている人びとのあいだにあっても、

 われらは怨み無く安楽に過ごそう。

        
( 197 )




















 (略)
 仏教ではどんな極悪人でも、立ち直り可能性があると教えます。お釈迦様の弟子には、かつて千人もの生命を奪おうとしたアングリマーラがいます。つぎつぎと人を殺し、「あと一人殺せば千人」というところで、お釈迦さまに出会ったのです。そんな男でも、出家して悟ることができました。
 よく考えてみれば、罪を犯した者だけが悪いのではありません。わたしたちにもその責任の一端があるのではないでしょうか。その男は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。かれが怒りでこりかたまっているとき、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。なぜ未然に殺人をやめさせることはできなかったのでしょうか。
 結果として、それができなかったということは、わたしたちの社会も、同じように罪があるといえるのではないでしょうか。
 ましてや未成年者が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。何とか助けてあげなくてはいけないのです。
 キリスト教の「聖書」にも、こんな話があります。法律学者達が、イエスの前にある女を連れてやってきました。それは姦通の現場で捕らえた女でした。かれらはイエスに、「姦通した女は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。
 イエスはこう言いました。「あなたたちのなかで罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい。」すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者はイエスと罪を犯した女だけになりました。
 そして、イエスは言います。「わたしはあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない。」と。
 「あの人が悪い。」「上司が悪い。」「社会が悪い。」「政府が悪い。」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない。」と思っている人です。自分のことをかえりみずに、他人を責める生き方をしているのです。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。
原訳 「法句経」 ー 一日一話 ー   A・スマナサーラ 著  佼成出版 より
 [他人の過失を見ずに
     自分を観る]


 他人の過ちや、したこと、 
 しなかったことなど、
 見る必要はない。

 自分を観るべきだ。なにをしているか、
 ないをしていないのか、と。

    
( 50 )

 他人の過失は見やすいけれども、
 自分の過失は観え難い。
 
 ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。

 しかし自分の過失は、
 悪賢いばくち打ちが
 不利なサイコロをごまかすように隠してしまう。

    
( 252 )
 (略)
 わたしたちは、人の過失を指摘するのが大好きです。
 それは他人の過失を指摘することで、「自分は正しい」と思いたいからです。

 「あの人は嘘つきだ」というとき、「自分はあの人と違って正直者だ」と思うのです。
 自分をだまして、気分よく生きているわけです。

 文明は進歩しても、人間の心は古代からなかなか進歩しません。
 進歩しないのは、他人の過失ばかりを見て、自分の心を観ようとしないからです。

 他人の過失を見て、相手が悪いと言っているあいだは争いがつづきます。

 しかし、どちらかが自分の心を観ようとすれば、そこで争いは終わるのです。





  [執着(しゅうちゃく)が強いと
   重たい荷車にな
る]

 ものごとは心にもとづき、

 心を主とし、心によってつくりだされる。

 清らかな心で話したり行ったりするならば、

 福楽はその人につき従う。

 ・・ 影がその体から離れることがないように。

    
)
  わたしたちの人生とは、荷車を引いて生きているようなものです。 その荷物とは、仕事や家庭や生きる重さです。
 同じ重さの荷物であっても、人によって、あえぎながら荷車を引く人もいれば、楽々と荷車を引く人もいます。
 この違いはなにか。
 それは執着です。
 執着が強いと、巨大で重たい荷車を引いているような人生になります。執着の少ない人は、荷物が職場や家庭であっても、それは影のように重さを感じることはないのです。
 俗世を離れて出家しても、心の問題はすべて解決するわけではありません。
 ただ捨てただけでは、心の問題は解決しません。家族や財産を捨てたとしても、いつもそのことを思い起こしているのであるならば、それらは捨ててはいないと言えます。まだ、それらを背負っているのです。(略)
 
 
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