![]() 編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃) 
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| 貴方は | 
    
 今回は、”戦争”について、短歌を挙げさせて頂きます。      ‥・・・                  
      私は、母親の背に負ぶさって逃げた頃でした。・・で、戦争の悲惨さ哀しさを知らない。  | 
      
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| 1 戦争:昭和万葉集から S54 編集 NHK TV | 
|  あなたは 勝つものと思ってゐましたか  老いたる妻の さびしげにいふ  | 
      土岐善麿 | 
|   あかだもの 葉末(はずえ)ゆすりて 吹く風の 涼しき夏に また逢えるかも 注: 質問に答えて・・湯川秀樹氏は、下記の意味で、枕詞として使われたと思います。・・ 苦縁讃 ****************** ”枕詞” 李寧熙(イ ヨンヒ)さんの「枕詞の秘密」 文藝春秋社 に依ると・・・、 ◇ 赤玉能(あかだまの)は、祝詞・出雲国造神詞 従来の意味→赤い色の玉。「あからぶ」にかかる。 ◇ 「韓国語読みでは、アガタマヌンがある。」と。この、韓国語読みで理解すると、 『幼君は・・』『赤ちゃんである総督は・・・』と言う意味だそうです。 アガ→ 幼児 タマ(タム)→ 最高権力者 の意。  | 
      湯川秀樹 S17 | 
| 北支で総攻撃命令の前に詠んだ歌 いささかの 愛惜(あいせき)を絶ち 焚き捨つる 万葉代匠記(だいしょうき)の 炎よ 赤し  | 
      山中貞則 | 
|  この年のただ一枚の年賀状 肺病やみの役者より来る  | 
      徳川無声 S20 | 
|  英霊を迎ふる 半旗 ひっそりと まひる日中を 垂れて動かず  | 
      杉本苑子 当時高等 女学校三年生  | 
    
|  夜は蚊ぜめの地獄 昼は蝿ぜめの地獄 地獄 地獄 地獄 S17 フィリピンを転戦 ・・ 腕・顔に群がってくる・・・手を動かす力はない  | 
      野間 宏 | 
|  一線は全滅せりと 喚(さけ)びつつ 熱に狂ひし 若き隊長  | 
      田中富雄  密林にさまよう:マラリア  | 
    
|  帰らざる 十七人程の兵ありて 静かなる村の 一つの嘆き  | 
      菅原俊治 | 
|  人人の背後(うしろ)にありて もの言わず 見送る人は顔白かりき  | 
      堀内雄平 | 
|  生きて再び逢ふ日のありや 召されゆく君の手をにぎる 離さじとにぎる  | 
      下田基洋子 | 
|  さがし物ありと誘ひ(さそい) 夜の蔵に 明日征(い)く夫(つま)は 吾を抱きしむ 家中がてんやわんやの大騒ぎ、見送りの人の世話に忙しい妻に・・ 「後を頼む」とぞ,そっと抱きしめる。  | 
      成島やす子 | 
|  夫とのる 最後とならん 夜の汽車に 温かき牛乳 わけてのみたり 群馬県老人健康村の村長を努める 夫は東大助教授、フィリピンで行方不明となる。 今も(S54当時)、夫の帰りを待っている。  | 
      神神戸照子戸照子 | 
|  沈みゆく 鑑もろともに 死なんとす  感極まりて 甲板に座る  | 
      矢野善喜 (水平)駆逐艦「弥生」  | 
    
|  明日出で征く 湯屋の息子が 会釈して 下足の札を 渡して呉れぬ <銭湯の番台の息子:中国に参戦・戦死>  | 
      駒 敏郎 | 
    
|  土煙を被ると 土の匂ひがぷんぷんする 鋭くあたる 敵弾の音を聞いてゐる  | 
      宮崎信義 | 
|  発射音 打撲感 左掌(ひだりて)鮮血 いまだ死なざる 吾を自覚す  | 
      山田政次 | 
|  掃射受けしあとの 静けさ しましくを 幕舎の上に 合歓の葉は散る  | 
      山上 次郎 | 
|  敵襲を退けたれば 闇なかに 威嚇(いかく)射撃を のびのびと撃つ  | 
      久我思秋 | 
|  棒杭に鉛筆なめつつ ひたむきに 死馬の墓標を 兵は書きたり  | 
      御旅屋 長一 | 
|  首斬(き)らるる匪賊ら三人(みたい)  目かくしをされつつ並ぶ 枯野の丘に 警備隊長が捕まえてきて、翌日、  | 
      田中政蔵 | 
|  戦死せる弟の日記に 食べたきもの 観たきもの 読みたきものありて 泣かしむ 中国にて戦死。弟21歳。弟の日記にはこう書いてあった。 「食べたきもの:トウモロコシ、リンゴ、水、水、水・・ 観たきもの: 高原の秋草。映画「たそがれ」他  | 
      岩波香代子 | 
|  ふるさとの秋としるして 野の花を 送り来れり 愛しきかなや  | 
      駒田信二 | 
|  子のしゃべる かたことを 写す妻の手紙 便壺にまたがり くりかへし読む  | 
      司代隆三 | 
|  あが唇(くち)を うつつ欲(ほ)るがに 汝(なんじ)が圧せる唇型の やや開きて紅(あか)し 毎日、絵手紙を・・  | 
      敷島弘美智 (画家)  | 
    
|  汝が熱き息吹き まぢかにあるごとく ふとおどろきぬ 文よみをりて  | 
      敷島弘美智 | 
|  命生きて帰りし 基地に待つものは 一人子 悠理の 死にしという文  | 
      松本富治 | 
|  召されたる 夫の使ひし鶴嘴に 馴れて石炭(すみ)掘る 女坑夫われは  | 
      下田綾女 | 
|  征く日まで 夫の握りし 鎌(かま)の柄(え)の 手ずれ親しみわれは稲刈る  | 
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|  かたくなに債権買わぬ 会員ありて 電燈暗き 常会終わりぬ  | 
      金子千鶴 | 
|  衣料切符の使ふすべ 問う年寄りに 判るまで答へて 九点きりぬ  | 
      山田千代子 | 
|  飯米を案ずる老母(はは)に 説き聞かせ 米一俵の 供出をせり  | 
      篠原久太郎 | 
| S19 中支 戦死者の屍体(したい)収容 出来難し それぞれ 小指持ち帰れとぞ  | 
      阿部守男 | 
| S19 ビルマ 流れつきし 兵の半裸屍体 魚につつかれ 睾丸(ふぐり)すでになし 斯かる死(しに)も見つ  | 
      宇沢甚吾 | 
| S19 北支 戦友を焼く大き炎の ひとところ 火炎変わりて 革の匂ひす  | 
      内藤幸政 | 
| S19 ニューギニア わが腿の肉 なほ落ちず 終(つい)の日に 削り食らへと 宣(の)る戦友(とも)を抱く  | 
      橋本勇之助 | 
| S19 ニューギニア 八十里 二十日かかりて 行き着かず 脱落の兵 三万を超ゆ  | 
      堀内雄平 | 
| S20 満州 閃光と砲音のなかに 母を呼び 空(くう)を掴(つか)みて 戦友は死したり 周囲は火の海、一心に土を掘る。フッと冷めた空気がでる。 それを嗅ぐように吸い込む。背には衣服に火が移る。  | 
      野中貞三郎 | 
| S20 フィリピン 餓死したる 友の袋に 一合の米 包まれてありたる あわれ  | 
      森 誓夫 | 
| S20  北支 ぐるぐるねぢて 掌(て)を切っていく 叩くやうに 戦友の掌を切っていく 遺骨を作るため。思わず『南無阿弥陀仏』と、 「お母さん」でも「天皇陛下万歳」でもなかったという。  | 
      宮崎信義 | 
|  をさなどち猛火のなかを 獅子舞のごとく 布団をかぶり泣きゆく  | 
      浜田幸子 | 
|  機銃掃射の炸裂音(さくれつ)に 小さき掌は 吾(あ)が乳房(ちぶさ)握り 顔を埋る  | 
      大久保礼子 | 
|  布団かむり ゆらゆら来る 女あり あはれ一夜に 気やふれたるか  | 
      平崎三郎 | 
|  食う草よ 草よ草よと 誰も皆 花見にと来て 草を摘むなり  | 
      山田尚子(13歳) 後、過労死  | 
    
|  きみが手に 成りし高菜(たかな)は 採り惜しみ 五月の畑に 花を咲かせたり 出征前に彼は彼女の家で、庭に高菜を蒔いた。 高菜を見ると当時を思い出し、採取し得ず。  | 
      石川まき子 | 
|   君が機影 ひたとわが上に さしたれば 息もつまりて たちつくしたり 空軍の夫について任地へ・・・。妻には解った。・・・・。その日、夫は 妻が見上げる空を旋回して戦地に発つ。 飛行機の陰が一瞬、自分の体に被さる。  | 
      川口汐子 | 
|  五年生 山田茂と 言ひし児は  母の写真に声かけて 寝(い)ぬ  | 
      野沢学人 | 
|   アー 水ヲ クレマセンカ 咽(ノ)ド 痛イイ 夜ガ 明ケンノー  | 
      豊田清史 | 
|        歌集「さんげ」  著者 原爆症   S38 乳ガンの宣告 S40死亡
       酒あふり 酒あふりて 死骸焼く 男のまなこ 涙に光る 大き骨は先生ならん そのそばに 小さきあたまの 骨あつまれり 子と母か繋ぐ手の指 離れざる 二ツの死骸 水槽より出ず ズロースも付けず 黒焦げの人は 女か 乳房垂らして 泣きわめき行く 焼きへこみし弁当箱に 入れし骨 これのみがただ 現実のもの  | 
      正田篠江 | 
      
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| 2 長崎原爆の被爆者の短歌から | 
| 長崎の被爆者 竹山 広(ひろし) 氏 歌人 15年6月9日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
      
 大正9年、長崎県・隠れキリシタンの家に生まれた。12歳の時に神父の薦めで、長崎の神学校に進学(長崎公教神学校)。 16才で神父になる夢を断念。 転校した中学生で短歌と出会った。中学を出て就職したが、21才で肺結核を患い入院。療養中の25才で被爆。 その被爆体験を歌集にする。 氏の家は、代々続いた隠れキリシタンの家であった。 村の中心には、瀬戸山天主堂がある(大正7年建立)。 一冊の短歌集としてまとめるまでには、実に36年の歳月が掛かっていた。 平成14年『竹山広全歌集』で詩歌文学館賞、迢空賞、斎藤茂吉短歌文学賞受賞。 「わがとこしへの川 」 S56年 61才にして初巻歌集発刊 魂の歌 戦後、2年ほどして役場に就職。結婚。 喀血。死を覚悟して、カトリックが死に臨んで行う「終油の秘蹟」を授けてもらう。 妻には、医者は後3ヶ月と宣告された。妻と二人の子供のことが心配であった。 昭和39年に、姉と家族を連れて長崎を離れる。 畑二反歩、鶏を200羽の経営規模であった。それらのすべてを売却して一大決心をして家を出た。 町に出て名刺の印刷業を目指す。 売却した家は、まだ新しかった。しかし、”結核患者の住んでいた家”と言うことで、二束三文に買いたたかれた。 「売った物の中で、鶏が一番高かった。」と、氏は言う。 二反歩の畑の馬鈴薯は収穫間近であった。 
 ☆ 被爆前後の顛末 ☆ 長崎に原爆投下: 25才 結核で療養中のことであった。 「村上第一病院」に入院中、原爆落下の日に退院することになっていた。 時刻は、朝10時。兄が病院に迎えにくるのを待っていた。・・・が、約束の時間に兄は来なかった。 その頃であった。 原爆は投下された。翌即の時刻に兄が来ていたとすれば、原爆投下の地点に兄が居たことになる。 だが、兄は、何かの都合で迎えに来る時刻を遅れたのだった。 そのために、二人ともそのときに命拾いをしたと、いま、振り返るとそう思う。 翌日,氏は兄を捜すために投下地点を歩いた。 その日は朝から空襲警報が出た。その後まもなくして解除されたので、飛行機の音にはあまり気にしないで、病院内で談話に夢中になっていた。そんなときに飛行機の音。 B-29の音であった。 飛行機は、病院に向かって急降したように聞こえた。 氏は、「これは、狙われている。」と、思わずベッドの下に頭をつっこんで、構えた。・・・・・・。その後のことであった。その瞬間に熱い光が・・・・・。まるで、大量のマグネシュウムを炊くような・・・・・・・、そんな感じであった。熱い光であった。ちょうど熱い光の中に体が浮き上がったような感じであった。生きた心地もなかった。その直後に衝撃波が襲った。 病院全体が身震いする様な振動。ガラスが割れ、壁の漆喰が落ち飛んでくる。部屋中のものが飛びかう。瓦礫と砂埃の状況下であった。 その時に、自分の体の上に何かが乗っかった。そんなに重いものではなかった。 しかし、記憶して忘れられないのは、息ができなかったことであった。空気の固まりをのどに突っ込まれた感じであった。氏は、必死で呼吸した。 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。 病院を出て、畑に入った。 あたりの民家は皆ぺしゃんこになっていた。 町全体が火に包まれていた。人類が滅んでしまうのではないかと思った。 自分は軽い方であった。 周囲のみんなから頼られていると思うと、一瞬逃げ出したくなる様な思いでもあった。 翌日のことであった。 兄を捜して・・・・、やっと兄を捜し当てた。山の中であった。 兄は、長崎に爆弾が投下されたその日、10時に病院の氏を迎えに来ることになっていた。来なかった。 翌日昼まで待っても来なかった。 自分は兄を捜しに出かけた。 兄は、退院する氏を迎えにリヤカーを引いてくることになっていた。 探し当てると、兄は毛布を被って金比羅様の境内にいた。 聞けば、兄は空襲の気配で、逃げる子供達とともに防空壕に入ろうとした。 一瞬、後ろを振り向いた瞬間に、光に照らされたという。 そのとき 兄は「水が飲みたい」という。 近くにあったヤカンを拾って、山から下った。 少し下って50m程奥の方にきれいな水のでるところがあった。 事前に知っていた。 しかし、ここが一番すざましかった。 皆、きれいな水のでるところであることを知っていた。水を求めて多くの人々が集まっていた。 飲んで安心して息絶えたヒト・・・・。 あるいは、飲めずに順番を待っている人・・・・。 飲みきれずままに息絶えた人。 その光景はものすごかった。 皆、集まった人々は紫色にふくれあがっていた。 「着の身着のまま」ではなく、むしろ裸ん坊の人ばかりであった。 着た物は皆焼けてしまっていたのだ。そして、身体は丸出しになっていた。 紫色に膨れあがっていた。 「人間とはそんな風に大きくなる物か?!」と、思った。 そんな人々が、・・・・、死んだ人や喘いでいる人がたくさんいた。 兄に飲ませる水を汲みたいがなかなか、思う様にはいかなかった。 そんな状況下で、踏み分けて進んで、山から直接落ちる水をヤカンに汲んだ。 ヤカンに一杯に入れて、50mほど進んだところで、下を見るとおよそ12〜13才くらいの女の子がいた。 うずくまって、顔だけ上げて、『水を〜』と言う。 階段を下りて水を少女に差し出した。 両手でヤカンを持って、二口ほど大きく飲んだ。 『オジさん!アリガトウ!!』といった。この言葉を今でも思い出す。 
 もう一度、水を汲みに行って、兄の居場所に向かった。・・・・・・、途中、下を見れば、少女は石段の上に顔を伏せて亡くなっていた。 「誰も見ぬ間に一人で淋しく逝ったか ・・!?」と思い、何とも言えぬ気持ちで、その場にうずくまって泣いた。 水を飲ませてやったことが、「良かった!!」と思った。 他の人に請われても見向きもせずに水を与えなかった自分は、何故かその少女に飲ませた。 兄は、その日10時に来ることになっていたが来なかった。 翌日昼まで待っても来なかった。 自分は兄を捜しに出かけた。兄らしい・・とおぼしき死体を一体ずつ確認しながら進んだ。 そう言えば、 兄は、退院する自分を迎えにリヤカーを引いてくることになっていた。 探し当てると、兄は毛布を被って金比羅様の境内にいた。『兄さん!!』と、呼んだが、兄はうつろな顔をしていた。 聞けば、空襲の気配で、逃げる子供達とともに防空壕に入ろうとした。 一瞬、後ろを振り向いた瞬間に、光に照らされたという。 見つけたときには、兄は、・・・ 顔半分はやけどして、背中はただれていた。 川に死体が折り重なって浮いていた。 代表作 
 兄は、はじめは元気であった。 二人で、被爆の現状を話し合った。 星空を二人で眺めながら二人で話し合うことができた。星空はとても美しかった。木々には葉は一枚もなかった。 
 だが、 四日目から、兄はちょっとおかしくなってきた。幻聴とか幻想が出てきた。 何かおかしなことを言う様になってきた。 はじめは、「やけどには水は良くない。」と聞いていたので、制限していたが、 それ以後は、兄の求めるまま、欲しがるだけ水を飲ませてやることにした。 思いようによっては、自分が側にいて、飲みたいだけ水を飲ませて、 自分が側にいてやって死んだことは、良かったと思う。付き添ってやれたことを、良かったと思う。 他の多くの人々は、飲みたい水も飲めずに、孤(ひと)り忽然と死んでいく人が多かった。 兄は、敗戦の日の翌日死んだ。 
 昭和39年に姉と家族を連れて長崎に転居する。 鶏200羽、田畑2〜2反歩。体力もない。このような状況下で、この先を考え悩んだ結果である。 入院中の友人に印刷屋の経験者が居た。農業以外には、印刷業の仕事を知るのみであった。 すべてのものを売却して長崎に出た。 家も田畑も、すべてを売った。 結核を病んだ者の家は安く買いたたかれた。稲も畑の産物も実ったまま売却した。 
 「苦労して作った馬鈴薯も置いていくんだねぇ」と、妻が一言呟いた。 ☆ 印刷屋開業 ☆ 最初の二日間ほど夫婦で活字拾いを練習した。最初に、自分の名刺を作った。 間口一間、奥行き二間の小さな印刷屋。『竹山印刷店』 お客を待ちながら、内心怖さがあった。自信がなかったからである。 2年間くらいは経営が苦しかった。固定の客が無かったからであった。 
 『あなたは、商売人に向かないね』と、妻に言われた。 はじめから値引きした値段で商売をしていた。 この頃には歌集を作る気持ちはなかった。 ☆ 歌集のこと ☆ 生活で精一杯で、こころの余裕がなかった。しかし、しばしば原爆の夢を見た。 原爆の詩を詠むと、必ずその夢を見た。 しばらく短歌を詠まなかった。 一句詠むと、その状況を夢に見て苦しんだからだ。脳裏に焼き付いていたのであった。 およそ10年ほど短歌を詠まなかった。 しかし、やがて詩を作った。 つらい思いを歌にして、はき出すことがこころを安らぎに導くことになった。 誰かに伝えておきたくなった。原爆が胸を塞いでいる。それを歌わなければ先へ進めない気持ちがしたのである。 ”わがとこしへの川”とは、自分の中に一生続けて流れる川である。 
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