思索の庵 10
"The hermitage of the speculation"

編集・管理人: 本 田 哲 康
 書物の中で、感動を受けた言葉や章を、ご紹介させていただきます。
 少しづつご紹介し、必要なら感想も述べさせていただきます。


「思索の庵」      メール 待ってます
       「ご案内」 
貴方は人目・アクセスカウンター 番目のお客様です。    ようこそ!

 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指します・・・・・・。 
 
******************
10 ”十七条の憲法”、日本の精神史の源泉を見る !  2月29日
******************
   日本人のこころの背骨は、一体何か?と・・・・・。探ってみたくなった。
    そこで、 『思索の庵-9』において羅列
(られつ)してみた。
  戦後、我が国の復興は世界中が目を見張るものであった。・・・・が、その代償
(だいしょう)に・・・、気づいてみれば我が国には大きな課題を抱える事となっていた。
  改革が望まれている。・・・・。
        <そして、今
(2006年)、少しずつ具体化の様子が見えてきてはいる。>
  国民は、本音のところで焦
(あせ)っている。・・・が、しかし、確かな視座をもっているわけではない。
  戦後、じりじりと、長い時間を掛けて、この”課題”は膨張した。
  一朝一夕に是正できる妙薬も無かろう。
  日本人の好きなスーパーマンも・・・・、中年のお好みの水戸光圀の”印籠
(いんろう)”も、現実には無い。
  ”一億、総、下手人捜し!”と、皮肉った評論家もいた。 ・・・・・が、
  他人ごとのように、世の中を憂いてグチって見ても、どうにかなるお話ではない。
 結局は、
  足下を見定めて、自分を・・・、家庭を・・・、地域を・・・、と"身近"なことから"自ら行う"=実践すること以外に方途は無かろう。・・・。そう思うのだ。
  そんなことを思うとき、以下の資料に、示唆を感じ取るのである。
     ・・・・ 苦縁讃
 
 普遍(ふへん)的国家の理想とその哲学的基礎
         ・・・・・・     「日本の思想史」 中村元 著 
春日屋伸昌氏訳より
T 佛教伝来
 仏教、朝鮮を経て日本に伝来三国時代の朝鮮南西部の一国王百済(くだら)の聖明王が「釈迦仏の金銅像一躯かねみかたひとはしら・幡蓋若干はたきぬがさそこら・経論若干巻きょうろんそこらのまき(『日本書紀』より)からなる贈り物と共に使節を日本の天皇に送った。
 欽明天皇
(在位539〜71)は、非常に感激した。
 この時、欽明天皇は臣下に相談するのを賢明であると考えた。
 臣下のある者は、「日本も新しい宗教を採用して他の文明国の例にならうべき」だと主張、また、ある者は、「もし、”異国の神”をあがめるならば、日本の神々が怒るのではないか」と申し立てた。
 しかしながら、佛教が日本において重要な役割を果たすようになったのは推古天皇の治世以降のことである。
 この時期の傑出した人物が、聖徳太子である。
                     ☆ この頃の歴史的な背景は、最後(この章の終わり)に掲載。
 聖徳太子の独見創意と仏教  「日本精神通義 - 日本精神の源流 -」  安岡正篤 著 より
 これは実に有り難いことでありました。
 思想信仰の問題というものは、まことに微妙な、注意すべき大事でありまして、仏教の急激な興隆なども、確かに調子に乗って、とんでもないところに逸れかねぬ危険性が多分に在ったのであります。
 西暦前千五・六百年頃からインドのパンジャープ地方にやって来たアリアン人種が、その雄大荘厳な大自然に驚嘆讃仰の情を禁ぜずして、ここに四種の讃歌、吠陀ヴェダVedasを作り、祭祀を始め、その讃仰祭祀内省がだんだん梵書
(ぼんしょ)Brahmanasや優婆尼沙土(うばにしゃど)Upanishads哲学を生じ、この間ガンガ流域に勢力を占めるようになるにつれて、先住民族との間に生ずる惨憺(さんたん)たる軋轢(あつれき)闘争の苦悩が、中国よりもまた別趣の悲惨な社会を実現しました。
 この点、実にわが日本と天地の相違があるのであります。
 仏教は釈迦によって、いかにこの現実の苦悩、単に人間としての生老病死などの苦悩ばかりでなく、民族的、国家的生活苦より解脱すべきかの道を説かれたものでありますから、元来はどうしても超国家的性向を免れません。
 現に、法興寺が起工された年、というと推古天皇即位の前年でありますが、仏教とはこれを法興元年と呼び、それが後にできた法興寺の薬師仏光背銘や伊予の湯岡
(ゆのおか)碑<太子は伊予の道後に行っていた>などにちゃんと用いられているのであります。
 わが国の年号は「大化」が始めでありますが、西洋の法権、王権の対立などから考えて、寒心させられる問題であります。かような危険も日本は何の苦もなく祓いのけていっているところに真に神ながらの国体ということを痛感させられるではありませんか。
          日本精神通義 - 日本精神の源流 -」 抜粋   安岡正篤 著 より 
 

     歴史のページにリンク
 
U 聖徳太子
 太子は、日本のすべての統治者の中で最も優れた、また最も慈悲深い一人であり、日本における佛教の確立者であった。

 
当時、国土は反目する武将や世襲の地方豪族達によって揺り動かされていた。
 彼らはそれぞれ自分の領土ではみずからが法であり、民衆を服従させていた。
 太子はこれらの地方の武将達を抑え、旧弊を廃止すべく舞台を整えたが、このことは、太子の死後、646年の勅令で宣言された大化の改新において実行された。
 世襲的
(せしゅうてき)に土着し自治を維持してきた地方の統治者達は追放され、彼らの財産は、”民や奴(やっこ)”も含めて国家に没収された。
 
V 十七条の憲法
 推古天皇の12年(604)に聖徳太子は通常”十七条の憲法”と呼ばれるものを発布した。
 これは日本の最初の立法で、当時の日本思想の独創的かつ創造的な発展の表現であり、主として仏教精神に基づきながら、中国やインドの思想を適当に活用している。いわば我が国のマグナカルタとも言うべきものであった。
 一般には太子自身によって書かれたものと考えられている。
 歴史家の中にはそれを疑うものもいるが、その主要な思想が太子自身の考えを表現していることには議論の余地がない。
 
 1 特徴
(1)  その根本精神が厳密に法的な規定と言うよりもむしろ道徳的な訓戒の形で表現されている。法的な規制を含んでおらず、むしろ倫理や宗教の基礎を述べ、後年制定されるさまざまな法律の指針となり、かつ内的規制として機能することを意図したものである。
 中央集権的官僚国家という太子の政治的理念を反映して、憲法において具体化された理想は、大化元年
(645)の改新において、より明白な表現をとることとなった。
(2)  太子の死後24年ほど経た年になって、日本の社会の重要な変革に手が付けられた。
大化の改新によって確立され、日本の統一を達成した政治体制とこの憲法との間に密接な関係の存在することは専門家の認めるところである。
(3)  ソンツェン・ガンポ王の法律あるいはアショーカ王の勅文と比較すると、ソンツェン・ガンポ王の法律あるいはアショーカ王の勅文は、民衆に向けられたものであった。
 ソンツェン・ガンポ王の法律・・一般大衆に対する道徳的な戒律

 アショーカ王の勅文 ・・ 一部はエリートに向けられたとしても、大部分は一般大衆に対するものであった。



 太子の憲法は、”公(おおやけ)の道”すなわち国家の問題に関与する際の規範となる精神的・道徳的態度を規定したものであった。
 官吏に対するものであり、朝廷政府の役人の業務に対する指針を与えるものであった。
(4)  中央集権国家の出発点からして既に官僚制が日本で根強いものであったことを暗示している。後の日本の官僚の優位がこの事実の中に予示されていると考えられるであろう。
 2 十七条の憲法の内容を見る ・・・ 中村 元氏の訳による
(1)  ”和”を強調




                  第 一 条
 「和(やわらぐ)を以て貴しとす。(さか)うることなきを宗(むね)とす。
 人皆党
(たむら)あり。また達(さと)る者少なし。
 是を以て或は君父
(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里に違(たが)えり。
 然も、上和
(やわら)ぎ下睦(むつ)びて事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
 事理自
(おのずか)らに通(かよ)う。
 何のことか成らざらん。」
  一曰 以 和   為 貴   無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。
       ヤハラキヲ  タフトシ
乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。      

注:











                      
 
「和(やわらぎ)を以て貴しとす。・・・」は、中村 元氏の書物に在った。これは「意を得たり!!」であった。
 「和
(わ)を以て貴しとす。・・」と読むのは、漢字を知っている知識人達には分かるが、文字を知らないこの時代の大部分の人びとにはしっくりと意味が通じなかったと思うからである。また、以後の文とも符合している。官吏達も、和(やわらぐorやわらぎ)と訓読みをしたに違いないと思う。(しかし、権威を保つために、強いて訓読みしたかも知れない。今に至っても、政治家達の選挙運動には、自らの名前を音読みさせて権威を誇示している。ヒトの内なる心情はそんなに大きくは変化できない。現代は、漢語よりも英語を多用して権威を示そうとする。・・・・発音は英語ではない。日本英語ではあるが・・・。)
 当時は、話は耳で聞いて言葉で話すことの方が一般的であったはずである。しかも、憲法とならば、やがては国民のすべてに理解させようとするものである。意味の通じる読み方をしたと思う。
 だが、中村氏の著作によってはじめてこの読み方を知った。
 そして、すんなりと納得できた。・・・・苦縁讃
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
第一条には・・・・・
  
こころを穏やかに親しく他と接することはとても素晴らしいことだ。
 内に”非難・批判”の心を秘めて他と接することのないように心得るべし。
 人間、皆、それぞれの好みがあり、党派を組み、「好き」「嫌い」の感情に左右され、”非難・批判”の角を立てやすい。
 しかし、見識があり円満で人生を達観した人物なんぞはそんなに居るモンじゃない。
           (どちらが正しくて、どちらが間違っているなんて、判定できるものではない)
 だから、目上や年配者に従順になれなかったり、隣の家や村との争いも生じたりするものである。
 だが、上を敬愛し若い者や下の者にたいしては、慈しみの気持ちをもって、お互いに話し合い心を通わせることが出来れば、物事は自然に成るべき方向に進んで行くものである。
 何も、難しいことではない。
   ・・・・・ 子どもの頃、爺さんから良くお説教されたもんだ!思い出す。・・・・苦縁讃
”隣里に違(たが)えり”の解釈
 ここでは、「隣の家や村との争いも生じたりするものである」と解釈した。
 しかし、農作物の不作や台風などによる水害などに、くり返し見舞われたり、領主の圧政によって、非情な年貢
(ねんぐ)取り立てで、小作民たちは村から離散して彷徨(さまよ)うことも多かった。
 このような状況は、随分と長い間、各地で起こった。
(農民の「先祖伝来の土地」という概念は、後の源頼朝の治世1192年以降になってからかも知れない)
 従って、
 ”隣里に違
(たが)えり”を、そのような村移りとの解釈も可能であろう。
 しかし、第一条全体の内容からして、
「村民の諍(いさか)い」を指していると解釈した。 
 中村 元 によると、
「ある学者たちは、「和」という言葉が『論語』に出ているところから、その概念も儒教からとられたのであると主張している。
 しかし、『論語』では、「和」は礼儀正しさないし礼儀作法との関連で用いられているだけで、主題となっているわけではない。
 ところが
太子は和を人間の行動原理として提唱したのである。
 彼の態度は仏教の慈悲の思想に由来するもので、儒教とはっきり区別されるべきであると思われる。」
    とし、「聖徳太子の憲法は民衆の福祉を尊重し、民衆に思いやりを注いでいる。」    とのべた。
 中村氏は、同書でこう解説している・・
この”和”という主題は
 第一条のみならず、憲法全体に特徴的なことである。
 ある学者は、”和”という言葉が『論語』に出ているところから、その概念も儒教から採られたものであると主張している。
 しかしながら、『論語』において”和”はその人の身分にふさわしい礼儀作法を意味している。
 (和は議論すべき対象ではなかったが、太子はこの徳を人間の行為を規制する主要な原理として主張した。太子の態度は仏教の慈悲の思想に由来するもので、儒教の礼節の思想と明らかに区別される必要がある。)
(2)












”和”を達成するための具体的な方法
 さらに、太子は和を達成するための明確な方法を提示している。
 即ち、どのような問題に関わる議論においても怒りを抑えることは、我々が全くの”凡夫”であることを深く自覚することによってのみ可能であるというのである。
 人間というものは頑固で偏狭に陥りがちであるから、一つの共同体のなかでも、また共同体相互間においても闘争が起こりがちである。
 このような闘争が克服され、和が実現されてこそ初めて調和ある社会が形成されるのである。太子に憲法のすべてにわたって、主君と臣下、上司と部下、さらには一般民衆また各個人それぞれの間において理想として志求されるべき和の精神が述べられている。
 ところで、志求されるべき目的が和であって単なる服従ではない点に注意すべきである。




               第 十 条
  「忿
(いかり)を断ち、瞋(いきどおり)を捨てて、人の違(たが)うを怒らざれ。
  人皆心あり。心各執
(と)れることあり。
  彼是
(ぜ)なれば我は非なり。我非なれば彼は是(ぜ)なり。
  我必ず聖
(さか)しきあらず。彼必ず愚(おろか)にあらず。
  共に是れ凡夫ならくのみ。是非の理
(ことわり)、誰(たれ)か能く定むべけん。
  相共に賢
(さか)しく愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。
  是れを以て彼の人瞋
(いきどお)ると雖(いえど)も、還りて我が失を恐れよ。
  我独り得たりと雖
(いえど)も衆に従いて同じく挙(おこな)え。」
   十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、?能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 
「納得がいかぬ」と怒ったり、恨みを抱いたりなど・・、自分と比較して他者が”違う”ことを怒ってはならない。
 人は皆、自分(己)同様に思うことがあり、拘
(こだわ)りや信念とするものがある。
 皆、それぞれ違うのである。
 そこで、「相手が正しい」となれば、自分が正しくないことになり、「自分こそ正しい」と思えば、相手・他者は”非”となる。
 だが、自分が必ずしも常に清く正しいとは言えない。
 自分と考えや意見が違う他者が、決して”愚か者”であるとは言えないのだ。

 何故かならば、お互いに人は皆
”凡夫”だからだ。
 凡夫には、”是・非”を裁決する能力は無いのである。
 凡夫はお互いに似
(に)て、ある部分には長け、ある部分には劣っている。
 あたかも、お互いに”人”の能力なんぞは、まるで指輪や耳輪の如く、指とか耳を飾って美しいが、他に使おうとすればなんの役にも立たない。
 そう想えば、自分と趣味や主張の異なる相手に対して、つい恨みを抱いたときには、振り返って自分も相手にそう思われることを自戒せよ。
 ”順風満帆
(じゅんぷうまんぱん)”。ことが上手く運ぶとはいえ、驕(おご)らずに調和して、他と同(どう)じよ。  
 16世紀の初め中国の硬骨の偉人といわれた崔銑(さいせん)が遺した                                  
後渠集(こうきょしゅう)」という語録に出てくることば:「六然(ろくぜん)」がある。
 勝海舟もこのことばを好んだ。
                              
自処超然(じしょちょぜん)   処人藹然(しょじんあいぜん)        
有事斬然(ゆうじざんぜん)  無事澄然(ぶじちょうぜん)      
得意澹然
(とくいたんぜん)  失意泰然(しついたいぜん)     
 補足: ☆ 日本人の素顔をなす要素。・・・「一念五然」 ☆
 日本人が持つ生死観の基本要素は                                          
(宿命観) 哀念
(あいねん)     (生命観)  欣然(きんぜん)
(道徳観)  粛然
(しゅくぜん)   (運命観)  淡然(たんぜん)
(人間観)  藹然
(あいぜん)    (宗教観)  超然(ちょうぜん)
   ・・のことで、日本人はこのような観点を無意識に統合しながら、人間としての限界をそっくり受容する諦観(ていかん)に立ち、運命を拓(ひら)き、使命や理想を追求し、自己実現し、その自己を越えつつ立命(りつめい)を果(は)たしてゆく。
 つまり人間が持つ宿命、「さだめ」といってもいいけれど、ともかく選びようのない宿命の中でしか生きられないという、そういう哀(かな)しみを心の裡(うら)に深く湛(たた)え、その哀しみも人間の気高(けだか)さにまで昇華(しょうか)させる。
 そして、選べるはずのない死を、絆(きずな)の中に生きる人々のために選び、その自ら死に赴(おもむ)くことに「欣(よろこ)び」すら含ませ、「おごそか」の中に「淡々」として、棄(す)てるもの、棄てられるものの哀愁(あいしゅう)を越えた、切なくも懐(なつ)かしき人生の日々をなごみのまなざしで思い返しながら、未練(みれん)深き世間の情と絆(ほだ)しを断ち切って、しかも再びその苦界(くかい)に転生しようと冀(こいねが)う心情。
 日本人の心の原風景と言いますか、いわゆる死を情念化させる日本人独特の生死観が有る。
                     
 ・・・・・ 出典失念  m(_ _)m
 <和の雰囲気のなかで怒ることなく議論すれば、さまざまな問題はおのずから解決され、個人間及び集団間の決定も和が行きわたっているところでのみ正しく行われるであろう。和がないところでは、個人は個人と争い、実りのない抗争が続くのである。>

 太子は民衆は単に服従すべきであるとは教えていない。

 正しい見解を得るには和の雰囲気のなかで討議すべきだというのである。
 熱心な討議は最も望ましいことであるが、他方、和を欠いた態度や言葉は避けるべきだとされた。
 すなわち討議においてとげとげしさを避けることは、すべての人間が全くの凡夫であるという事実に対する自己反省を通してのみ可能である、という太子の考えは先の箇所(第十条)に現れている。
 
太子は、当時の民衆が、みずからの行動の基準となり、統治者に謙虚な自省を促すような宗教を必要としていることを見て取った。こうして選ばれた宗教が仏教であり、三法すなわち仏・法・僧は生きとし生けるものに究極的な理想を与え、あらゆる国の人々の生活に究極的な基盤を与えるものとして尊重された。
(3)  第二条の主題・特徴 <篤く三宝を敬え




             第 二 条
「篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは仏(ほとけ(のり)(ほうし)なり。
則ち四生
(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくそう)なり。
何の世、何の人かこの法を貴ばざる。人尤
(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。
(よ)く教うれば之に従う。
それ三宝に帰せずんば、何を以てか枉
(まが)れるを直さん。」
               
                        注:この部分は、安岡正篤著 「日本精神通義」による。
  三宝とは、   申すまでもなく、「仏・法・僧(ほうし)」のこと。 
   四生とは、      胎生(たいしょう)→人畜
 卵生(鳥類) 
 湿生(虫類) 
  化生(変化類)・・のこと。
注:  「化生」      広辞苑によると・・・ 
 ア、 〔仏〕 四生の一。
 母胎または卵を通過せずに、超自然的に突然生れでること。また、そのもの。
 仏・菩薩または天界の衆生の類。弥陀の浄土に直ちに往生すること。
イ、 仏・菩薩が衆生を救済するため、人の姿をかりて現れること。化身。化人。
 今昔物語集11「是化生の人なり」
ウ、 ばけること。ばけもの。変化
(ヘンゲ)
  二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能ヘ従之。其不歸三寶、何以直枉。
@  第一に、その思想は、悪に固まった人間はほとんどおらず、誰でも教化すれば宇宙の根本真理である仏教に従うようになるいうのである。これは東洋的な思惟の特徴であり、西洋的な観念と対照をなしている。永罰という思想は仏教には無縁であった。
A  普遍的な法という思想、すなわち真理は「四生の終(つい)の帰(よりどころ)、万国の極(きわ)まれる宗(むね)」であるという思想である。
 「何れの世、何れの人か、是
(こ)の法を貴ばざらん」と太子は問う。
  太子によると、あらゆるものが一つの原理に収束されたところが”法”と呼ばれるのであった

 推古天皇の二年(594)、太子の伯母である推古女帝が三宝の振興に対して朝廷の援助を与える旨の勅令を発した。
 その勅令に従って、朝廷の大臣達は互いに競って仏教寺院を建立したという。こうして仏教は根を張り、生長し、花開したのであった。日本文化史の新しい時代が始まったのであった。
 アショーカ王と聖徳太子との間には基本的な原理の違いはなかった。
 仏教の精髄はすべての宗教や哲学の教える普遍的法則を認めるところにあるからである。
 また同様に、彼らはこれこそ宇宙の真理であるとかれらが考えた法のうえに普遍的国家を築こうと努めたのである。
 冠位十二階の制定:それ以前、朝廷の高い官位は社会的身分の高い人によって占められ、
 世襲的に伝えられたのであった。
  それが新しい制度のもとでは宮廷への就職や昇進は能力によることになった。
  生まれではなく功績が新しい評価の基準になったのである。
(4) 官吏(かんり)の間に模範的な倫理的態度を確立・・善を尊び悪を憎む精神




                     第 六 条

  
「悪しきを懲(こら)し善きを勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。
  是
(これ)を以(もっ)て人の善を匿(かく)すことなかれ。悪しきを見ては必ず匡(ただ)せ。
  其
(そ)れ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は国家を覆(くつがえ)す利(と)き器(うつわ)たり、
  人民を絶つ鋒
(と)き剣(つるぎ)たり。亦(また)(かが)み媚(こ)ぶる者は、
  上に対
(むか)いて好みて下の過(あやまち)を説(と)く。
  下に逢いては上の失
(あやまち)を誹謗(そし)る。
  其れ此
(かく)の如(ごと)き人、皆君に忠なし、民に仁(じん)なし。
  是れ大なる乱の本
(もと)なり。」
  六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。
   亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 悪を懲(こ)らしめ、善行を薦(すす)めるのは、昔からの政(まつりごと)の鉄則である。
 だから、公正に見て善は褒
(ほ)め、好ましくない行いは必ず本来の在るべき形に正(ただ)せ。
 また、気に入って貰おうとおもねる者や、陰に回って裏切りする者などは、国家を乱す元凶
(げんきょう)であり、民意を乱し不正を蔓延(はびこ)らす剣のごとくである。
 更にまた、人あたりがよくて、口先上手く身近に近ずく者は、とかく目上の者に対し、己を印象づけて売り込むために、他者や部下の落ち度を告げ責任の転嫁を図
(はか)る。
 部下に対しては,上司の落ち度等を吹聴
(ふいちょう)して英雄気取りで誹謗(ひぼう)する。失敗を目敏(めざと)く見つけて彼の責任を追求する。
 これらの者は皆、上司に対して忠誠は無い。
 やがて長じて上に立てば人民に優しい政治は行わない。したがって、国が乱れる元である
 「勝手気ままに法律制度を弄(もてあそん)で手柄にしている。全く天下を救うように見えてその実天下を乱す者は功名の士・功利的人物である。
 真に国を救うのはやはり気節の士、道義的人物である。」
  「東洋の宰相学」 安岡正篤より

 
上記のようなタイプが結構上司に受けて居た。そんな輩は、やがて昇進した。実に歯がゆい・悔しい思いをした。 ・・・苦縁讃
 人間の人格とか議論とか主張とかいうものは案外わからない。権門富貴の間にあって淡々として名利(みょうり)に執着のない人もあるし、厳岫(がんしゅう)の間にいかにも高く矜恃(きょうじ)しておって、心の中は実は案外偽物(にせもの)がいる。
            ・・・・ 
「禅と陽明学」 安岡正篤 プレシデント社 368頁
 ちょっと一言:
 
「司の落ち度等を吹聴(ふいちょう)して英雄気取りで誹謗」
と・・・。そこで、いま一つ考察すると、・・・・、今の日本の総理大臣に対する国民(マスメディアも含めた)の批判を連想した。
 まことに,不甲斐ない政治の状況である。実に無様な日本の状況である。
 周辺の諸外国はどのように見て居るであろうか?・・と思う。 しかし、これが日本の現実である。
 総理が野党の時代から、彼のヒステリックな国会のやりとりを知っているはずだ。・・が、この民主党はそして彼は国民が選んだ総理大臣だった。この政治体制は、「民主政治」の中で生まれてた結果である。
 
・・・これは、我々国民がそうさせているのであった。このことに気付いている人は少ない。
 「民主」とか「自由」が、本当に日本に浸透しているのだろうか?
 母親から振り込まれた4億円の存在を「知らなかった。」と公式の場で発言できる事が不思議である。
 そのような
おおらかな人物が本当に国家を支えられるだろうか???
 そんな人物を信じられる日本人の心 ?! 日本の文化が疑われるのである。
 政治家を選んだ責任を忘れて、唯、これを批判をしている !
 理念の無いようなマスコミの情報(瓦版)に右往左往させられている。・・・・。笑えない現実である。
 政治は、確かに批判せざるを得ない状況下だが・・。
                           
2010年  ・・・・苦縁讃
 
(5) 道徳的改善への関心




             第 五 条
  「餮
(むさぼり)を絶ち欲を棄てて明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。
  其れ百姓の訴え、一日に千の事あり。
  一日すらも尚お爾
(しか)なり。況(いわん)や歳(とし)を累(かさ)ねてをや。
  頃
(このごろ)(うったえ)を治(おさ)むる者、利を得て常(つね)と為(なし)
  賄
(まいない)を見てはげん(言偏に獻:罪を議すること)を聴く。便わち財あるが訟(うったえ)は、
  石もて水に投ぐるが如し。貧しき者の訟
(うったえ)は、水をもて石に投ぐるに似たり。
  是を以て貧しき民は由
(よ)る所を知らず。臣の道、亦ここに闕(か)けぬ。 」
  五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳?。
   便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

 太子は力を用いることを恐れなかったが、道徳的改善への関心の方が優先していた。
 道徳的関心は、迅速で公平な裁判を求める上記の訓戒においても明らかである。

管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 貪欲(どんよく)なむさぼりの欲を断って、公正に訴訟(そしょう)を判決せよ。
 万民の訴えは無数にある。
 しかし、一時
(いっとき)でもむさぼりの心があってはならない。
 更にいうならば、これを繰り返すことなどは以ての外
(ほか)といわねばならない。
 近年、貢
(みつ)ぎ物を当然のこととし、これを品定めした結果、その貢(みつ)ぎ物の多少によって訴訟を処理する者ありと聴く。
 沢山持ってきた訴訟人の訴えに対しては、訴え人の意志のとおりに石を水に投げ込むがごとくにバシャリと裁く。
 貧しい者の訴えは、
(貢ぎ物も貧弱であったり無かったりするので)水を石にぶっ掛けるがごとくである。
 訴えは散って消え、聞き届けられない。
 これでは、貧しい者達は頼りにすべき所が無い。
 臣下として君主に仕えようとする場合、これは言語道断
(ごんごどうだん)である。
(6) 官吏は清廉(せいれん)であること




            第 七 条
  「人各任
(おのおの)あり。掌(つかさどる)こと濫(みだ)れざるべし。
  其れ賢哲官に任
(いま)すときは、須(もと)むる音(こえ)起こる。
  よこしま
(姦遍に干)なる者官を有つときは、禍乱(からん)繁し。
  世に生まれながら知ること少し。尅
(よ)く念(おも)いて聖と作(な)る。
  事、大小となく、人を得て必ず治まる。
  時、急緩となく、賢に遇
(あ)いて自ずから寛(ゆるか)なり。
  此に因りて国家永久にして社稷
(しゃしょく)危うからず。
  故
(かれ)、古の聖王は官の為に人を求む。人の為に官を求めず。」
  七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。?者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。
  事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。
  故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。
 この教えは1,000年も前に述べられたものであるが、今日のように進んだ近代社会においても
おそらく一考の価値あるものではなかろうか。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 人皆に任務がある。任せて与えられた任務は、その枠の外にはみ出て、勝手気ままに務めてはならない。
 賢哲
(けんてつ)がその任に当たるときには,自然に”待ち望んで居た!”との民意が現れ、満足の声を挙げる。
 功利主義に走り、誠意がない不実な人、相手次第・相手に会わせて主義・主張を変えて迎合
(げいごう)する者を任に付けると、国は治まらず、騒然と不協和音が起きる。
 人は、生まれながら完成した者は居ない。志を貫きよく努力した者が、やがて聖人となるのである。
 物事は、ことの大小を問わず、人を得て初めて成る。
 解決を急ぐことがあっても、賢者に任せればゆとりを持って、成し遂げることもできるものだ。
 このように、人材の登用如何
(いかん)で国家は常に平安である。
 従って、古来より優れた君主
(上に立つ者・代表者)は、”国家”のために人材を登用する。
 家柄とか派閥によって選ぶようなことはしない。
 注:安岡正篤 氏の書物に、以下のような内容があった。・・・( )内は、管理人の注釈
    
リーダーとしての、先ず第一条件は、部下の「人物を見抜く」ことだ。
    しかし、以下の六賊・七害がリーダーになったりしていると、・・・事は重大だ。
 王者の六賊
臣下の驕る者(部下が、”お山の大将”ばかりで、驕慢(きょうまん)。)

民衆にあって、まじめに産業に従事せず、志士気取りで放埒なこと
   
        (自らの分をわきまえず任を蔑ろにし、一流気取りですずしい顔で他を誹謗)

臣下の私党を結んで主の明をおおうこと
           (三流人間の一流気取りで、徒党を組む。下司(げす)の勘ぐりで上司の悪口・不平不満)


臣下にあって主を軽んじ、自ら威勢を張るもの
           
(些細な欠点をあげつらい、あたかも自分の方が大物のように吹聴する)


官爵有司を賤しんで、上に協力を肯ぜぬもの 
            (当面の利害得失に終始し、上司の理想・志を無視し、蔑視する)
勢力階級の弱者いじめ(階級・派閥勢力に頼み、傍若無人な振る舞い)
 王者の七害
 
一 知略権謀(見識や指導性=胆識たんしきのない者に爵を尊くする(責任のある任務を与える)こと
 
二 虚名策術(姑息な手段でうわべだけを繕う)で巧みに時流に迎合する者を相談相手にすること
 
三 悪衣悪食(流行に流され華美に振る舞い派手な生活をするが)をいかにも道徳家のように装いながら、
    その実、名利欲の強い偽りの人物(偽善者)を近づけること
 四 徒に体裁を飾り、或いは名利に関心がないように見せる姦人(功利主義に走り、誠意がない不実な人、
       相手次第・相手に会わせて主義主張を変えて迎合)
を寵すること
 
五 大事を図らず(志低く)利を貪って(自分の得になることに目聡く面子にこだわり)動き、空理空論
      
(子細な事、枝葉末節な事に拘わる)する者を悦ぶこと
 
六 浮簿な文事(形式)に走って、農事(自らのずべき任務軽んずる・阻害する)を妨げるような者を禁ぜぬこと
 
七 異端邪道(○×法とか○×派の当代一流の知識であるかのように吹聴し)を以(もっ)
   民の迷信を煽る
(信じ従わせる)者を止めぬこと
☆ 胆識(たんしき)について ☆ 
 (略)
 胆力とか胆気とかいうものは、困難を排して進行する精神力を表し、人物の重要な資質である。
 識に関しても、智識というものは頼りない。進んで見識というものにならねば優れた判断にならない。
 その見識が幾多の抵抗を排除して断行する力を具備する時、これを胆識という。抵抗・障害を排して、見識を断行する勇気はこれを胆勇といい、その人物の器量を胆量といい、その具体的方策を胆略という。
 これらは英雄に無くてはならない資質である。云々   
「天地有情」 安岡正篤著 黎明書房より
(7) 官吏の嫉妬することを戒めて・・・





          第 十四 条
  「群臣百寮、嫉
(うらや)み妬むことなかれ。
  我既に人を嫉
(うらや)むときは、人亦我を嫉(うらや)む。
  嫉(うらや)み妬(ねた)む患(うれえ)下に注あり、其の極を知らず。
   所以
(このゆえ)に、智己(おのれ)に勝るときは悦(よろこ)ばず、
  才己に優るときは嫉妬
(ねた)む。
   是を以て五百
(いもとせ)にして乃(いま)し今賢に遇(あ)うとも、
  千載にして一の聖を待つこと難し。
  其れ賢聖を得ずば、何を以て国を治めん。」
  十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。
  所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。
  其不得賢聖。何以治國。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 
部署の責任者及びすべての役所の肩を並べる職員達は、相互にうらやんだり、ねたみ心を抱くことが無いようにすべきである。
 とかく他人に対して、地位や彼の処遇をうらやましく思うが、それは自分のみではない。
 同じ様に他者は、ひそかに自分をうらやんでいるものだ。
 「うらやみ心」や「ねたみ心」の”邪見
(じゃけん)”は、止まるところが無い。
  (鏡に映した他の鏡の中の風景のように、)
際限がない。
 だから、人は他者が見識において自分に勝っていると思えば不愉快に思い、仕事が手際よくできる者に対しては妬みを抱く。
 このような、見にくい有様から脱却できるように努力し、人生を達観した”賢者”に成るよう努めなくてはならない。 <だが、簡単なことではない。>
 このように、随分と昔から今日に至るまで、まれに”賢者”に遇
(あ)うことはあったが、”聖人”に会おうとしても、それは不可能に近い。
 だが、”賢者
や”聖人”が居なくては、国を治めることはできないのだ。
注:(うらや)み妬(ねた)む患(うれえ)に関すること 安岡正篤より
 見濁(けんだく):人間は他の動物と違ってだんだん大脳が発達して、そこから思惟、
      思考が発達する。
 これを「見」という。
 この「見」に
五濁がある。
第一 我 見(がけん) つまらない自我に執着して物を観ること。
第二 辺 見(へんけん) 物を子細に観察しないで一面一辺をとって直に結論を出す。
第三 邪 見(じゃけん) (よこしま)な心、ねじけた心を持って物を考えること。
今まで大切にしてきた物にけちを付けて喜ぶ。
第四 見取見(けんしゅけん) イデオロギーの誤り。一種の先入観。
第五 戒禁取見(かいきんしゅけん) 本当の真理がわからないで、むやみやたらに「べからず」を振り回す。
注:「東洋の宰相学」 安岡正篤より
 (おう)の説く政治: 革新政治
 
 「智者は法を作り、愚者は制せられ、賢者は礼(制度文化)を更(あら)ため、不肖者は拘泥するものだ。」 ・・・・・甘龍が、「聖人は民を易(か)えずして教え、智者は法を変えずして治めるもの。
 民に因
(よって)教うれば労せずして成功し、法に縁(よ)って治めれば吏は習熟しているし、民衆は安心するものだ。」といったのに対して(おう)がいった言葉は・・
人よりも高い行(おこない)有る者はもとより世に非(そし)られ、独特の見識有る者も必ず衆よりそしられるものです。
 「
智者はことの成り行きをまだ萌(きざ)さぬうちにちゃんと見抜いてしまいます。
 民は与
(とも)に始を慮(おもんばか)るべきものではなく、与に成功を楽しめばよろしい。
 至徳を論ずる者は俗に和せず、大功をなす者は衆に謀
(はか)りません。
 だから聖人はもし国を強くすることができるならば、何も故事に依らねばならぬと言うことはありません。
 民を利することができさえすれば、別段その制度に循
(したが)いもしません。」と・・・。


 
改革を断行隣組(となりぐみ)制度を作り連帯責任を厳重に。二男には分家せしめ、これに倍額の税。
 軍功を賞し私闘を禁じた。
 甘い道徳論・妥協論を一切排除して、耕織を本務とし、中間商人を排除し、怠情による貧困を罰した。
 名家も国家に対する奉公の成績によって待遇し、功なき者は貶
(おと)した。
 法の行われぬのは上よりこれを犯すからであるとして、上位の者も仮借することなく罰した。
 始めに非難して、後で迎合してきたような者は辺境に流し、「転向者」を許さなかった。


 
法治主義で法に恃(たの)みすぎると、末流になればなるほど、どうしても煩瑣(はんさ)になる、人情に悖(もと)る。
 人間を治めんとして人間に背くに至るのである。
 次には権力を振るいすぎて謙虚を失うようになる。
 冷静謙虚な反省が無くなると、どうしても本当のことがわからなくなる
(8) 独裁すなわち恣意(しい)的な個人支配を非難・・日本民主主義の萌芽であり出発点



          第 十七 条
  「其れ事独り断
(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と論(あげつら)うべし。
  少なき事は是れ軽し。必ずしも衆とすべからず。
  唯大なる事を論
(あげつら)うに逮(およ)びては、
  若し失
(とが)ありことを疑うが故に、衆と相弁(わきま)うるときは辞(こと)理を得。」
  十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。
   故與衆相辮、辭則得理。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 政治の決断を下す場合、必ず民意を汲
(く)むため、協議の場に挙げるべきである。
 事の些細
(ささい)な件も時にはある。こんな時にはこのかぎりではない。
 ただ、重大な懸案を協議しなくてはならない事態に及んだときには、軽率な判断にて失策を行わないように慎重を期すべきだ。
 こんな時には自分の立場と責任をわきまえて、事態を良く整理して、事の動機付けを明確にすべきである。
  この思想は日本民主主義の萌芽であり出発点と言うことができる。
  この思想は和の精神のもとで討議の行われるべきことを規定した第一条とも関連している。
  この憲法は、大化の改新後の勅令によって具体化された。
  この勅令は、「天地の間に君として万
(よろず)の民を宰(おさ)むること、独り制(おさ)むべからず」と述べて、
 君主による恣意的な支配ー今日の言葉で言えば独裁ーを非難している。
◇ この独裁への抵抗の観念は、どこから来ているのであろうか。
@ 日本神話のなか  古代の統治方法は、君主すなわち”万人の主”の命令によるのではなく、川のほとりの会議によっていた。参加者の意見が無視されれば、会議はほとんど成功し得なかったのである。
 従って、太子が古神道からこの思想を受け継ぎ発展させたと想像することも故
(ゆえ)なしとしない。
 
(管理人)”故なしとしない” ・・・・ 道理にあった理由がある
A 仏教教団の戒律が
太子の思想に影響
 仏教教団の戒律が太子の思想に影響したとも考えられる。仏教教団の戒律は太子も知悉している仏典のなかに詳しく述べられており、その中に多数決の法則も含まれているのである。
 アショーカ王やソンチュェン・ガンポ王において他と議することが明文化された形で勧められていないことは注目に値する。
他と議するというこの思想ないし精神は、政治権力が天皇から封建時代の将軍に移るまで保たれた。
(9)  天皇の優越性・・・アショーカ王やソンチュェン・ガンポ王に比べて独特な相違点 




        第 三 条
  「詔
(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め。
  君をば天とす、臣をば地とす。天は覆
(おお)い、地は載(の)す。
  四つの時、順に行われて、万
(よろず)の気通うことを得。
  地、天を覆わんと欲
(す)るときには壊(くず)れを致さくのみ。
  是を以て君言
(のたま)うをば臣承(うけたまわ)る。
  上おこなうときは下靡
(なび)く。
  故
(かれ)、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず慎(つつし)め。
  謹
(つつし)まずば、自(おのずか)らに敗(やぶ)れなん。」
  三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。
   是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。
管理人の意訳:(当時、文字の読めなかった市井の人々には、以下のように理解させたことと思う)
 天子から命令を承(うけたまわ)るときには、正して畏(かしこ)まって聞き入れなさい。
 天子は”天”である。臣民は”地”である。天は地を庇護
(ひご)して覆(おお)い、地は天を支えるのである。
 正しい時間に、律に則
(のっと)って、これが伝えられれば、すべての気功が順良く通うであろう。
 ”地”である、臣下が君主を軽んじ自ら威勢を張るようなことが在れば、国は崩れるであろう。

 だから、天子が命令を承るときには、臣下は正して畏
(かしこ)まって聞くのである。
 これを、また、役人が民に伝えるときは、草木が風になびくように、なびき従いなさい。
 前述のごとくである。天子の命令を承るときには、正して畏
(かしこ)まって聞き入れるのである。
 畏
(かしこ)まって聞き入れなければ、国は内から崩れるであろう。 
 上に立つ者に倫理的な欠陥があれば、一般民衆を統治することはできない。
 同様に一般民衆に倫理的な欠陥があれば、どれほど上に立つ者が励んでも無数の犯罪や非行が起こるであろう。普遍的国家の統治の基盤となる者は礼節、より広くいえば倫理的な原理であった。
 天皇・官吏・人民の関係は、漢代儒教によって組織された古代中国をモデルとして形成されたものであった。
 しかし、このモデルは日本的土壌に移植され、大化の改新の本質をなす氏族権力の廃棄と密接に結び付いていたように思われる。 
 (10)  天皇の威光への尊敬を示す



                     第 十二 条
 「国の司
(みこともち)、国の造(みやつこ)、百姓(ひゃくせい)を斂(おさめと)らざれ。
 国に二
(ふたり)の君あらず。臣に両(ふたり)の主(あるじ)なし。
 率土の兆民は王
(きみ)以て主と為(す)
 所任せる官司は皆是れ王の臣なり。
 何をもてか敢えて公に百姓を賦斂
(おさめと)らん。」
  十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。
  所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。
   この条項は天皇朝廷下の領土の中央集権的支配原理を明瞭に述べたもので、のちに国家的規模で行われた土地・人民の氏族所有の廃棄を予示するものと解されよう。
 地方の支配者の権力は消滅しようとしていた。
  「国に二(ふたり)の君あらず。」と言う言葉は、日本に独自というわけではないが顕著な思想であり、のちに日本の天皇制を特徴づける絶対主義を予知するものである
 
 さて、聖徳太子の「十七条の憲法」を、日本の始まりの”兆し”として、考えてみた。
 時は、その後1,300年経過した。

 日本とは何か?日本人の背骨とは一体どのようなものか?・・・・これだけでは、明確にできる課題ではない。
                            ・・・ 苦縁讃
補:
☆ 「寛容への道」と題して、上山春平 氏は、 NHK TV に、以下のように述べていた。
 s.ハンチントンは、著書「文明の衝突」の中で、世界の文明を8つに分けていた。
 仏教文明の中に、日本が入れられると思ったが、そうではなかった。
日本の文明は、特異なものとして分類されていたのだ。
  
それは、
ラテンアメリカン バラモン(ヒンドゥ)
アフリカン ロシア
イスラミク・・・コーラン 仏教文明 ・・・ インド仏教も、そして、中国の仏教も、戒律が厳しいと言われる。
シニク(中国) 日本文明(仏教と分かれている)・・日本を仏教文明の中に入れていない。寛容すぎると言うのである。
 日本・・・今、戒律は無きに等しい・・が、仏教として定着したかどうかは疑問が残るが・・・。 
   いまだに、日本には仏教が残っている。 ・・と言う。
  ◇ 最澄が、250の大乗戒をまとめて戒律を定めた。 「貶すな怒るな惜しむな」など・・・。
 更には   
  ◇ 親鸞は、「戒律など守れない凡夫だからこそ、仏が守ってくださるのだ。」・・寛容性を説いた。
             
 日本のみが、独立したネガティブな文明である。すべてを受け入れる女性的な体制である。
  他の文明は、皆ポジティブな文明だという。
   確固としたJapanese Civilization が望まれる。
  
・・・・・・と、上山春平 氏は結んだ。
附:☆ この頃の歴史的な背景
200  この頃、『浄土三部経』のうちサンスクリット『仏説無量寿経』『仏説阿弥陀経』。
 初期の『華厳経』成立。
248 卑弥呼没。壱与が女王となる。青銅製武器型祭器の消滅。
286  「正(しょう)法華教」、中国語に訳される。大法輪
300  如来蔵思想、唯識思想の発展(〜400) 300〜600  古墳時代
313  キリスト教,公認さる(コンスタンティヌス、キリスト教を公認)
 高句麗、楽浪郡を滅ぼす。
 百済・新羅台頭。
仲哀天 皇。 猿投神社創建と、伝えられる猿投神社創建。大碓命(おおうすのみこと)、大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)、活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさちのみこと)をお祭りし、山麓の本社、頂上近くの東の宮、西の宮の猿投三社大明神が祀られている。(当神社発行の解説書による)
356  仏教、300年後半、中国から朝鮮に伝わる。 新羅の統一。 この頃より前方後円墳が発生。
372  高句麗に仏教伝来。
391 朝鮮半島に出兵。倭軍、百済・新羅を破る。
399 法顕(399〜414)インドに求法「佛国記」。
400  高句麗の攻撃により、新羅より撤退。鳩摩羅什(くまらじゅう〜413)、長安にきて中観仏教を伝える。『維摩経』『法華経』の漢訳作成。
世親(344〜413)『阿毘達磨倶舎論』『唯識二十・三十論』等を著述。
氏性制度と部民制成立。
404 倭軍、帯方郡に出兵。高句麗に敗北。
421 華厳経、中国で漢訳される(80巻)。 倭王讃、宋に朝貢、朝廷から称号を受ける(宋書)。
424 「観無量寿経」、浄土宗、中国宋の時代(〜453)に漢訳される。
460 雲岡・竜門の石窟の石仏制作。「大乗起信論」。
462 倭王興、宋に朝貢、安東将軍倭国王とされる(宋書)
476  ローマ帝国滅亡中国で、曇鸞(〜542)生誕。親鸞が七高僧に挙げる僧4。北魏の五台山で修業。50代に洛陽である三蔵(シルクロードを通って多くの経典を携えて来て、ここで中国語に翻訳中)から、観無量寿経を示され浄土の教えに帰依し、仙経を焼きすてる。
478 倭王武、宋に上表文、六国諸軍安東大将軍倭王の号を授かる(宋書)
520  達磨(南天竺の香至コウシ国の第三王子で菩提多羅(ボダイタラ)という名前)インドから広東省広州に上陸する。護法(530〜561)中国に渡る。
527 筑紫国造磐井の乱。(物部氏)
528 物部あら鹿火(かび)、磐井を斬殺。
538 宣化535〜539  宣化3年。この年、ヤマト、屯倉を尾張にもうけるという。
 百済(聖明王)より仏教(仏像と経論)公伝(一説には552年)。天台大師智生まれる
(538〜597)
539 欽明539〜571 欽明天皇即位(日本書紀)
 欽明天皇は、仏教を取り入れるべきかどうか、時の権力者蘇我氏と物部氏に意見を求める。賛成したのは蘇我氏だった。                   (年代不詳)
540 欽明元年  大伴金村(かねむら)、伽耶(任那)問題で失脚。
 霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町)天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことをお祀りしている社。
546  真諦(499〜569)中国に渡る。曇鸞(476〜542)「浄土論注」を著述。慧遠(523〜592)「大乗義章」。智(538〜597)「天台三大部」。
552  仏教、朝鮮を経て日本に伝来
 三国時代の朝鮮南西部の一国王百済の聖明王が「釈迦仏の金銅像一躯
(かねみかたひとはしら)・幡蓋若干(はたきぬがさそこら)・経論若干巻(きょうろんそこらのまき)(『日本書紀』)からなる贈り物と共に使節を日本の天皇に送った。欽明天皇(在位539〜71)は、非常に感激した。
蘇我稲目・物部尾興、崇仏論争。
 ↑このときの上表には、以下のようにかかれていた。<注:幡蓋(はたきぬがさ)とは、幢幡(どうばん)と天蓋のこと。 >
 
『この法は諸法の中において最も殊勝(すぐ)れたり。解り難く入り難し、周公孔子もなお知ること能(あた)わざりき。この法は能(よ)く無量無辺福徳果報を生じ、すなわち無上菩提を成し辨(わきま)うるに至る。譬(たと)えば、人の意に随う宝を懐きて用うべき所に随いて盡(ことごと)く情(こころ)のままなるが如し。この妙法の宝もまた然(しか)なり。祈(もと)め願うこと情のままにして乏しき所なし 云々』・・・・(『日本書紀』)
562  伽耶(任那)、新羅より滅亡。    中国で、道綽どうしゃく(〜645)生誕。後に『安楽集』著述。親鸞が七高僧に挙げる僧5。中国北周の武帝は仏法を嫌い過激な迫害を行った。この時代に14歳で仏門に入る。涅槃宗に帰依していたが、ある寺で曇鸞の碑文を読んで強い衝撃を受け、聖道自力の道を投げ捨てて他力の教えに帰依した。これよりこの寺・玄忠寺の移り大師の「浄土論註」を基として、念仏生活に入る。同師80歳のときに善導がいる。
570 この頃、マホメット生まれる。(〜632)
574 敏達572〜585 敏達3年。聖徳太子(574〜622)生まれる  
 
11/新羅、遣いを遣わして調を進める(日本書紀)
584 この年、日本最初の出家者は尼(敏達13)。古代では尼の能力が評価された。
585 2/馬子仏塔を大野丘北に建て斎会を設く。3/物部守屋、中臣勝海」らが仏像・仏殿を焼く。8/敏達天皇崩ず。9/用明天皇即位。
587 崇峻587〜592 4/用明天皇崩御。仏教の受容と皇位継承をめぐり蘇我氏と物部氏対立。7/太子、蘇我馬子と共に物部守屋らと戦う。7/物部守屋、滅ぶ。聖徳太子四天王寺建立を発願、馬子が法隆寺建立を発願。
588 法興寺(飛鳥寺)建立着手。21年後完成。
592 推古592〜628 蘇我馬子、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使い崇峻大王(天皇)暗殺、推古天皇を擁立。
593

仁和寺蔵
NHK 「新日曜美術館」 より
推古1。聖徳太子(574〜622)摂政となる。四天王寺(日本最初の官寺)を難波に建立。四天王像をここに祀る。
 しかし、後の災害などで仏像等は紛失。
 京都の仁和寺(にんなじ)に失われた四天王像を描いた書物(「別尊雑記」)がある。平安時代末期の僧シンガクによって著された。余白には、この像が聖徳太子によって造られたと記されていた。現存する法隆寺の四天王像に似通っているので、最初に造られた太子の四天王像を真似たものだということがわかる。
 邪鬼の大きさは、「別尊雑記」のものと比べると2倍ほど大きいが・・。
 しかし、その後に造られる四天王像とは全く異なり、聖徳太子の像は、その後には受け継がれることはなかった。
 表情の穏やかな四天王像は、飛鳥時代にのみ造られた。
594 仏教(三宝)興隆の詔(推古天皇が皇太子:聖徳太子と大臣:馬子に命じた、仏教興隆の詔) この年、法隆寺の五重塔芯柱(檜)が伐採される。
(伐採推定年が科学的に明らかになる  H13/2/20報道)
599 4/地震のため、大和の舎屋倒れ、諸国に地震神を祀る。9/百済より駱駝・シャチ・羊・白雉を献ずる。
600 インドにて「大日経」「金剛頂経」等の密教経典成立。                遣隋使 倭王阿毎多利思比孤(あめのたりしひこ)が隋に遣使。
601 600〜700年にかけてインドの大乗仏教密教化する。 聖徳太子、斑鳩宮を造る。  新羅遠征計画失敗。
「添品
(てんぽん)妙法蓮華経」中国語に訳される。・・大法輪
602 玄奘三蔵(サンスクリット語の般若心経を中国語に翻訳)中国・洛陽に生まれる「大唐西域記」。吉蔵(549〜623)三論宗を大成。「三論玄義」。 2/来目皇子を撃新羅将軍として2万5千の兵を動員する。10/百済僧観勒(かんろく)、暦本・天文地理などの書を伝える。
603 十七条の憲法 広隆寺建立。冠位十二階を制定。それ以前、朝廷の高い官位は社会的身分の高い人によって占められ、世襲的に伝えられたのであった。それが新しい制度のもとでは宮廷への就職や昇進は能力によることになった。生まれではなく功績が新しい評価の基準になったのである。:(中村元)
注:冠位十二階 ・・・各大小
 
徳()・仁・礼・信・義・智
 それ以前、朝廷の高い官位は社会的身分の高い人によって占められ、世襲的に伝えられたのであった。それが新しい制度のもとでは宮廷への就職や昇進は能力によることになった。生まれではなく功績が新しい評価の基準になったのである。:(中村元)
604 初めて暦を使用。十七条憲法制定
605 10/聖徳太子、斑鳩の宮に移る。
607 第2回遣隋使



法隆寺建立。各地に寺院の建立が始まる。 小野妹子らを隋に派遣。  遣隋使:倭国から隋への国書「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致すつつがなきや」=独立国家として対等に外交を始めることを宣言。読んだ隋の皇帝・煬帝(ようだい)は激怒。しかし、朝鮮半島への出兵が迫っていた。倭国との争いをさけたかった。
608 初めて隋の使者が倭国へ来る      第3回遣隋使  新羅人多く渡来・帰化。小野妹子、答礼使と共に帰国。小野妹子、再び隋に派遣。
609 肥後国に百済人80人余漂着。 帰化希望者を元興寺に置く。 9/小野妹子ら帰朝。
612 この年、百済人味摩之が帰化し、伎楽の舞を伝える。
613 善導(613〜681)生まれる。「観経疏」を著述。 12/聖徳太子、片岡山で飢人に遇い、飲食・衣服を与える。
614 第5回遣隋使 8/蘇我馬子病臥し、男女千人を出家させる。
615 玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。 聖徳太子等、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611・維摩経義蔬:613、法華経義蔬:615)」完成
616 3/屋久人、帰化する。
618 隋滅亡、唐建国。 8/高句麗より武器・土産物・駱駝を献ずる。 この年、安芸国で船を造らせる。
620    8/屋久人2名、伊豆に漂着する。  春より秋にかけて雨多く凶作。
 聖徳太子、蘇我馬子と共に、「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部旭并公民等本記(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそともならびにおおみたからどものもとつふみ」を著す。 聖徳太子、現・叡福寺に生母間人(はしひと)皇后が死去したので墓所を造営し葬った。
622 聖徳太子、病没(49歳)・・・法隆寺の国宝 釈迦三尊像、光背の裏に記載在り:聖徳太子の親族と家臣が、太子が浄土に往生することを願ってこれを完成させたとある。また、ここには、「尺寸王身」と、聖徳太子の身の丈を写して釈迦の像を造ったことが記されていた。'08、12の調査
630 舒明(629〜641)        遣唐使のはじめ 第1回遣唐使派遣。
634 8/彗星見える。  法隆寺、夢殿の久世観音像成る。聖徳太子と同じ身の丈。
638 六祖・慧能(638〜713)貧しい農家に生まれる。  法隆寺金堂成る。
639 百済宮と百済寺造営。 7/百済大寺(大官大寺)建立を発願。9/恵隠・恵雲ら帰朝する。12/百済寺九重の塔建てる。
643 玄奘三蔵、帰国を思い立つ。
法蔵(643〜712)生まれる「華厳探玄記」「華厳五教章」「大乗起信論義記」等を著述。
聖徳太子の一族滅亡。
 蘇我蝦夷、私に紫冠を子の蘇我入鹿に授ける。蘇我入鹿・軽皇子ら、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲い斑鳩宮を焼く、山背大兄一族法隆寺で自殺させる。
644 入鹿、山背大兄王(聖徳太子の子)暗殺。
645 玄奘三蔵、長安に帰る。        
  仏像7体 教典657部持ち帰る。        
         孝徳645〜654)。


  大化〜49
大化改新。 岡崎市北野廃寺(白鳳時代前期:西三河最古の寺院)この頃建立。 
 6/12大化改新始まる。中大兄皇子ら蘇我入鹿を殺し(Link)、6/13蝦夷は自殺。蘇我氏は滅びる。中大兄皇子皇太子となる。蘇我氏の政変で、「天皇記」「国記」焼失。6/19初めて、年号を定め「大化」とする。 8/仏教興隆の詔。東国の国司に戸籍を作らせる。奴婢の法定める。9/12中大兄皇子、古人大兄皇子を討つ。12/9難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ遷都。
646  
         
1/改新の詔。
1. 公地公民の原則 この結果、巨大古墳は造られなくなる。
2. 中央集権的な政治体制の樹立
3. 班田制の制度・墳墓・葬送・婚姻等の制を定める。
4. 新税制の施行
 近江以東を畿外としたといわれる。  3/東国の国司を任命。9/高向玄理を新羅に派遣。 薄葬令により、身分により墳墓等の規定を作る。この頃より巨大古墳消滅。  六甲山・摩耶山上(標高698.6m)に仞利天上寺建立。『開基記』=伝説の域を出ない。が、平安時代にはすでに成立していたと思われる。
647  9/及び10/六甲山の麓、有馬温泉に舒明天皇が行幸。この年、七色十三階の冠位を制定する。
注:官位十三階
  1. 大織(だいしょく、おりもののこうぶり)(織冠、深紫衣)
  2. 小織(しょうしょく)(同上)
  3. 大繍(だししゅう、ぬいもののこうぶり)(繍冠、深紫衣)
  4. 小繍(しょうしゅう)(同上)
  5. 大紫(だいし、むらさきのこうぶり)(紫、浅紫衣)
  6. 小紫(しょうし)(同上)
  7. 大錦(だいきん、にしきのこうぶり)(大伯仙冠、真緋(あけ)衣)(大徳・小徳に相当か?)
  8. 小錦(しょうきん)(小伯仙冠、同上)(大仁・小仁に相当か?)
  9. 大青(だいしょう)(青絹・大伯仙、紺(ふかきはなだ)衣)(大礼・小礼に相当か?)
  10. 小青(しょうしょう)(青絹・小伯仙、同上)(大信・小信に相当か?)
  11. 大黒(だいこく、くろきこうぶり)(車形錦、緑衣)(大義・小義に相当か?)
  12. 小黒(しょうこく)(同上)(菱形錦・緑衣)(大智・小智に相当か?)
  13. 建武(けんむ)(黒絹)初位・立身
649

法隆寺 国宝・四天王像

NHK 「新日曜美術館」 より
官位十九階制定。八省、百官設置。蘇我石川麻呂、謀反の疑いを受け自殺。
冠位十九階は、冠位十三階を改訂したもので、一部名称の変更と下位の冠に位置する大花から小乙までを上下に分割したものである。
1 大織(だいしき) 10小花下(小錦/小仁に相当)
2 小織(しょうしき) 11大山上(だいせん)
  (大青/大礼に相当)
3 大繍(だいしゅう) 12大山下(大青/小礼に相当)
4 小繍(しょうしゅう) 13小山上(しょうせん)
  (小青/大信に相当)
5 大紫(だいし)  14小山下(小青/小信に相当)
6 小紫(しょうし) 15大乙上(だいおつ)(大黒/大義に相当)
7 大花上(だいか)
   
(大徳/大錦に相当)
16大乙下(大黒/小義に相当)
8 大花下(小徳/大錦に相当) 17小乙上(しょうおつ)
  
(小黒/大智に相当)
9 小花上(しょうか)
    (小錦/大仁に相当)
18小乙下(小黒/小智に相当)
19立身(りゅうしん)(旧建武)
650
法隆寺の四天王像
方角 特 徴 役 目
持国天 手に金銅の装飾が施された三叉檄(さんさげき) お釈迦様から仏教世界のすべてを守護するように託された神
増長天  押し殺した表情。直立した姿勢でまっすぐ前を見据えている。
 足下には一角の邪鬼。身動きがとれないように手足を拘束されている。
西 広目天 背中には、遙か昔の飛鳥時代に使われた極彩色の色合いがそのままに残っている。  静かなる記録者。
 手に持った筆とかんすで、悪事を書き付ける役目を担っている。
多聞天 手に、お釈迦様の遺骨を収めた法灯(ほうとう)  須弥山の中腹から四方を見渡し、この世とあの世の橋渡しを担う。
 この頃、法隆寺の四天王像は造られた。

 身の丈はそれぞれ130cm余りで、足下の邪鬼と台座、丸い光背を含めると2m近くになる。

 最初のものは、聖徳太子が造ったものであるが、災害などで紛失。京都の仁和寺に残る書物(「別尊雑記」)を参考に似せて造ったものである。
 広目天の光背に記されたものによると、この像を造ったのは山口大口費
(やまぐちのおおぐちのあたい)という仏師であることが解る。
 正式に、四天王像が、法隆寺の記録に記載されたのは、500年後の1196年であった。
 その間、四天王像は何処にあったのか?明らかではない。もともと法隆寺にあったとの説もある。
653 第二回遣唐使 道昭、この年入唐して玄奘(げんじょう)から教えを受けた。(第1伝。)その後「法相宗」となる。帰国後、行基等の師となった。遺言により火葬されたが、これが我が国の火葬の始まり。 中国・日本の仏教の一学派。南都六宗の一。「解深(げじん)密経」「成唯識論」などを典拠とし、一切存 在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶識(あらやしき)以外に何物も実在しないと説く。インドの唯識 派を承け、唐の基キを祖とする。奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。この年、中大兄皇子、天皇と不和になり、皇極上皇らと難波より飛鳥に移る。
662 天智(662〜671)
1/百済の鬼室福信
(クィシルボクシン)に、兵器食糧を送る。=百済の臣下鬼室福信(クィシルボクシン)、旧百済の遺臣達を集めて、反撃を目論む。この時に正統性を付けるために由緒有る王家の血筋が必要だった。=  3/唐・新羅が高句麗を討ち、高句麗は日本に援助を求める。
5/大将軍阿曇比邏夫は、百済王子豊璋を送って王位につかせる。(王子は、そのころ大和の三輪山の麓で養蜂を行っていた。=日本の養蜂の祖となった。) 6/百済、使いを遣わせて調を献ずる。
663  天智天皇は派兵した。朝鮮半島・「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。
結果は無残な敗北であった。
 この後日本は、唐威が攻めてくるという恐怖に直面することになる。
664 2/5 玄奘三蔵、没。(63歳) 総計 74部 1338巻の教典翻訳。大般若経 600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成。
天智3年

LINK  歴史年表
2/官位二十六階を定める。氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)を定める。5/唐の百済鎮将の劉仁願が、使を遣わして物を献ずる。
 この年筑紫に水城を造る。
 冠位二十六階は、冠位十九階をさらに細分化したものである。繍冠を縫冠に改訂し、花冠を錦冠に改称した。そして、大錦から小乙までを上下のから上中下に分割し、初冠である、立身を、大建、小建に分割した。
1 大織 14 大山中
2 小織 15 大山下
3 大縫(だいぷう) (旧大繍) 16 小山上
4 小縫(しょうぷう)(旧小繍) 17 小山中
5 大紫 18 小山下
6 小紫 19 大乙上 (だいおつ)
7 大錦上(だいきん)(旧大花) 20 大乙中
8 大錦中 21 大乙下
9 大錦下 22 小乙上
10 小錦上(しょうきん) (旧小花) 23 小乙中
11 小錦中 24 小乙下
12 小錦下 25 大建(だいこん) (旧立身)
13 大山上 26 小建
668 法隆寺の天井板を伐採
 古代、木材の伐採は建設が決まってから、その建物に会わせて行っていたはずである。
 現法隆寺の本堂は、最初の法隆寺が火災に遭う前に立てられていた可能性が高まったのであった。現在の金堂は、最初の法隆寺が焼けた後に、再建したのではなく、火災の前に釈迦三尊像を祀るための独立したお堂として建てられていたと、建築史家 鈴木嘉吉 氏は考えている。
この年に、現法隆寺の金堂内陣天井板を伐採。'08年12月の調査から、この材の伐採年代が判明。法隆寺の焼失前に、次に建てられる法隆寺の建築材を用意していたのは、何故であろうか?

670 この年、法隆寺焼失。釈迦三尊像に火災の痕跡がないのは、火災の前にそのお堂(現在の法隆寺金堂)に移されていたのではないか?
685 天武十四年
天武    白雉 


  初めて伊勢神宮の式年遷宮の制を定める
藤原宮に遷都  1/親王・諸王十二階、諸臣48階の位階を定める。3/諸国の家ごとに仏舎を造り、礼拝させる。7/朝服の色を定める。9/初めて伊勢神宮の式年遷宮の制を定める。9/諸道に使いを出し、青磁および百姓の状態を視察させる。11/武器の私蔵を禁ずる。   この年、興福寺仏頭成る。

冠位二十六階を冠位四十八階に改訂したものである。八色の姓と関連がある。大宝令の新位階制が作られるまで継続した。親王・諸王を、諸臣と分離し、別の冠を与え、諸臣の上位においた点も注目すべき点である。明・浄などの冠位の名称については道徳観念や徳目を表したものなどの説がある。明位の実例はない。 この日に草壁皇子尊に浄広壱位(じょうこういちのくらい)を授けたまふ。大津皇子に浄大弐位(じょうだいにのくらい)を授けたまふ。高市(たけいち)皇子に浄広弐位を授けたまふ。川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子に浄大参位(じょうだいさむのくらい)を授けたまふ。(『日本書紀』天武天皇十四年正月の条)

注:   歴史の詳細は LINK 日本の精神史
 「ご案内」