| その2 | 
             鈴木章子 氏のこと | 
          
          
             | 
             北海道斜里町にある真宗西念寺坊守、もと大谷幼稚園長。昭和63年癌のため47歳で死去。 
            著書に、「癌告知のあとで」  ー 私の如是我聞(にょぜがもん) ー | 
          
          
             | 
              この中に「46歳」という詩がある。 
             ここに「死の問題は、生まれた時からすでに始まっていた。」・・・と書いてあった。 
            
            
              
                
                  死の問題は、生まれた時からすでに始まっていた      
                  赤ん坊の時 死んでも仕方がなかった。 
                  青年期に 死んでも仕方がなかった。       
                  だのに私は、いま、46歳              
                  この 人生の一大事を             
                  考えさせて頂く一番有り難い年齢に        
                       癌をいただいた | 
                 
              
             
             
             4人の子供を抱えた母親である。ことさらに、嘆きも多かろうが・・・・。 
                    『お陰様で、46歳で癌を頂いた。』と、喜びを慶んでおられた。 
             
             鈴木章子 氏から、東井氏への手紙に、次のように述懐されていた。 
             
             「癌を告知されてより夫と床を別にしました。 
             夫に癌の妻へ気遣わせたくなかったからです。それでは、主人の体が持たないからです。」と、 
             そして、 
             「毎朝、お互いに『今日も合えて良かったね!』と声を掛け合いました。」と、まるで恋人同士のような会話が交わされるとの報告がされたそうです。 
             
             鈴木章子 氏は、乳ガンに冒(おか)されたのです。乳ガンは→左肺→右肺→子宮→卵巣→脳へ・・・・。と、瞬(またた)く間に転移しました。 
             
             やがて、脳手術のための、頭をくりくり坊主にした。 
             亡くなる20日ほど前に、自分の頭を指さして彼女は主人に次のように言ったそうです。 
            
            
              
                
                  「臨終は私の卒業式         
                  そしてお浄土の入学式 
                  私 お浄土の一年生よ 」 | 
                 
              
             
                                                      と、 
              くりくり坊主の頭で、笑って夫に言ったそうです。 
             
             「活かさずにはおかん!」という、この仏様の願いは、”死が目前に迫ってもびくともしない世界”を恵んでくださるわけですね。 
                          ・・・・・・と、東井氏は解説しておられた。 
             
             | 
          
          
            | その3 | 
            盲学校の6年生が言った。 | 
          
          
             | 
             『先生!それは僕だって、眼が見えるようになりたいわ!見えたら一度おかぁちゃんの顔が見たいわ!でも、見えるようになったら、「アレも見たい!これも見たい」と、・・・、気が散って僕なんかダメになってしまうかも解らへん。 
             見えなくても何ともあれへん。 
             先生!見えんのは不自由やで。 
             でも、僕は不幸と思うたことは一辺もあらへん。先生! 
             ”不自由”と”不幸”は違うんやなぁ?!』と、訴えた。 | 
          
          
             | 
             この子供に仏法の教えがあったかどうかは解らないが、 
            大好きなおかぁさんの顔も見たことのない、この小学生の中にも、如来様は想いの中に入り込んでいた。 
             | 
          
          
            | その4 | 
            死刑囚 久田徳三 氏 のことを書いた雑誌 「甦った人」 ー ある死刑囚の証したこと ー  に・・・、 | 
          
          
             | 
             小学校中学校とできが悪く、学校を出ても悪いことをくり返して少年院に出たり入ったり・・・。 
             とうとう死刑囚として投獄されて、教戒師さんとの出会いをご縁に、人間に生まれたと言うことがこんなにすばらしいことであったかと言うことに目覚めた。 
             
             いよいよ最後の日にはお別れの式があるのだそうですが、全てを終わった時に拘置所所長さんが一本のタバコをくれるという。 
             
             大抵の死刑囚の人はその一本のタバコをゆっくりゆっくり出来るだけ時間をかけてゆっくり吸うそうですが、「どんなにゆっくり吸っても全てが灰になって地に落ちる時が来ます。」と、・・そして、「それでは」と言って、13階段を登るのである。 
                         
             ・・・が、彼は、 
             『久しぶりのタバコ、誠に有り難うございますが、久しぶりのタバコで頭がぼんやりしておりましては、折角尊い世界に生まれさせて頂くのに申し訳ございませんので・・、』と、断った。 
             
             これに、係官の人が感動した。 | 
          
          
             | 
             死刑囚の方の上にも、 
              必ず、見事に生時の一大事を超えさせずにはおかんぞ! 
                       という仏の願いが働いていたのでしょうね。 
             
             「生きて良し 死して良し」ということである。 
             
             | 
          
          
             | 
             私は、人生と言う学校で、一番大切な勉強は、「自分の死と言うことをどんなふうにお受けし、乗り越えていくか?」と言うことだとおもう。 
             
             若い頃から、禅宗も真言のものもキリスト教も本当に勉強してきたが、なかなか「いつ死んでも良い。」と言う心境には至らないわけですね。 
             
             困りに困って、目覚めさせてくれたものは、歎異抄の第9のお言葉でした。 
             
             『お念仏は申しておりますが、いっこうに嬉しくもございませんし、急ぎ浄土へ参りたい心もございませんが、どういうことでございましょうか?』と、親鸞に質問した時に、親鸞は、 
             
            「急ぎ参りたきこころが、仏様のお目当てなんだ!」とお答えになった。 
             | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                  「なごりおしくおもえども、            
                  娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、 
                  かの土(ど)へまいるべきなり。 
                   いそぎまいりたきこころのなきものを、 
                  ことにあわれみたもうなり、・・・・・」 
                                          歎異抄 第九条 より 
                  ******************************** 
                     「ちからなくしておわるときに」・・・・ 力尽きてやむを得ず死ぬ   
                   | 
                 
              
             
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             | 
             誰もが、皆、死にたくなんぞはないのである。 
            「これで解ったぞ!」と思ったが、また、次のようなことに出会わせて頂いた。 
             
             | 
          
          
            | その5 | 
             息子が、交通事故で病院のベッドに | 
          
          
             | 
             教員をしている息子が、交通事故で病院のベッドに横たわって270日目である。 
             3年前に癌を手術した自分が、息子に換わってやることも出来ない。 
             
             自分の時には、周囲から「がんばれ!」といってくれたが、特段に『ガンバル』必要もなかったのである。 「七転八倒しても、如来様の願いがある以上、安心して七転八倒させて頂きます。」という気持ちであった。爽快な気持ちで手術室に入った。 
             
             しかし、息子の場合には、そのような気持にはなかなかなれなかった。代わってもらえないことよりも、代わってやれないことがこんな厳しい大変なことであったか?!ということにぶつかったのである。 
             
             想えば、 
             如来様も、衆生の苦しみを代わってくれることが出来ない。 
             代わってやれないから泣かずにはおれない、という如来の大悲の中の私の悔(く)やみごとであった。 
             ・・・と、 
             目覚めさせて頂いた時に、如来様と一緒にこの苦しみを味合わせて頂いているということに気づいて、なにか救われた気持で満たされた。 
             | 
          
          
            |  司会者 | 
            しかし、一般の人々がそういう思いになれるのであろうか? | 
          
          
             | 
             現に、寺の檀家の衆達が、 
             毎日、熱心に読経をした住職が癌にかかり、その息子が交通事故にあって死にそうになっているではないか?・・・・・ 如来様は一体何をしていらっしゃるのか? 
             
                   と、疑念を抱いている様子である。 
             
             一般には、 
             『仏様は、何でも願いを叶えてくださり、仏様に背くものには罰を与えるものだ。』と思っているものが多い。 
             
             ところが仏様でも因果の道理を、お曲げになることは出来ないですね。 
             
             息子の場合、生徒の話によれば、その日に胸に手を当てていたという。 
             如来様でも、「もうこの辺で休ませてやりなさい。」と、言っていたに違いない。 
             更に、毎日走って日本を縦断するほどの距離を走り続けた息子は「これくらいのことは!」と、その日に信号を無視して横断したという。 
             
             信号無視の結末を、息子自身が背負う以外にはない。 
             「代わるものあること無し」なのである。 
             植物人間のようになって、機械で呼吸をさせる状態であっても、生かされてあると言うことは、息子も親の自分も「今日も活かさせて頂いている」ということは、まだ、如来様の願いを頂いて在るということに違いない。 
             いつ壊れても不思議ではないシャボン玉が、今日もお陰様で親も子も一緒に今日を迎えさせて頂いているそこには、大きな願いがあるということですね。 
             
             一般の方々の中に、『自分も住職のような心境になりたいが、どうしてもそのような心境になれません』という方がおられる。 
             
             | 
          
          
             | 
            蓮如聖人; | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                    私たちは努力しても努力しても、 
                   汲み取ったものがみんな流れ出てしまう。 
                    まるで、籠(かご)のような身の上だ。 
                    水の中に入れてすくってみても、すくってもすくっても皆出て行ってしまう。 
                    いくら汲み上げようとしても、 
                    『あぁ、これで良し!救われた!』と言うわけにはいかない。 
                    そんな籠のような身の上であるが、 
                    いっそのこと 
                   水の中に入れてしまえば、・・・・・、 
                   「出る」も「汲み取る」もない。 | 
                 
              
             
             | 
          
          
             | 
            このことは、 
             親鸞聖人の 説く 大無量寿経 に・・ | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                  至心(ししん)廻向(えこう) 
                     願生彼国(がんしょうひこく) 
                     即得往生(そくとくおうじょう)、 
                     住不退転 ・・ | 
                  「至心(ししん)に廻向(えこう)し、彼の国に生まれんと願ずれば 必ず往生を得、不退転に住せん。」 
                           大無量寿経 | 
                 
              
             
             | 
          
          
             | 
               とある。これを親鸞聖人は以下のように読まれた; 
             | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                  「至心(ししん)に廻向(えこう)したまえり、彼の国に生まれんと願ずれば 
                   即ち往生を得、・・・ | 
                 
              
             
             | 
          
          
             | 
             
             親鸞様は、”・・したまえり”と、送りがなをおつけになっている。 
             
             如来様が、ひたすら願っておられる・・・ということである。 
             こちらから「お助けください!!」と願うのではないのだ。 
                               ・・・と、強調されたのである。 
             
             これを、第十七世法如聖人は、よく受け継いで、以下のとおりに説いている。 | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                  「助けてくだされよ、というにあらず。         
                  助かってくれよ、とある仰せに従うばかりなり、 
                   ・・・・・・・・・・・・・・・」 第十七世法如のことば より | 
                 
              
             
             | 
          
          
             | 
             こちらからお願い申すのではなくて、お救いのお慈悲の中に体ごと浸させて頂くことが大切なのである。 
             
             | 
          
          
            | その6 | 
            高血圧に苦しんでいる妹から手紙 | 
          
          
             | 
             妹も高血圧に苦しんでいる。・・・・・・・。手紙をくれた。・・・・ | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                  「お互いにひび割れた茶碗の身の上です。 
                  終着駅が目前に見えてきた感じですね。 
                    でも、         
                  いつ壊れても,         
                   ”まちがいなく御手(みて)の真ん中”、 
                  ということがありがたいですね。 
                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 | 
                  返事 
                  を 
                  、 
                  → | 
                  「壊れてから、 
                  そこで如来様がすくい上げてくださるとしたら、 
                  ”ひょっとして、お目こぼしなさって 
                  拾い上げて頂けないこともあるかも知れない。” 
                     ・・・と心配もあるが・・・。 
                   しかし、ひび割れて汚くなった古茶碗の、 
                  今現在でも、御手の真ん中なんだから、 
                  いつ壊れても”間違いなく御手の真ん中”なんだね。」、・・・・・ | 
                 
              
             
             | 
          
          
             | 
              ・・・・・と、病身の妹に返事を・・・・・。 
             | 
          
          
             | 
             
             拝んで救いを求めるのではなく、この存在そのままが生かされている。 
             これこそが御手の真ん中。 
                仏の方から、私たちは拝まれている。そして願われている。 
                        そうなると、なにかにをすることは、なにも無いのです。 | 
          
          
             | 
            
            
              
                
                   
                  「ただ、わが身をも心をも                 
                   はなちわすれて、仏のいへになげいれて、       
                   仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、 
                   ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、 
                   生死(しょうじ)をはなれて仏となる。 
                   たれの人か、こころにとどこほるべき。」 
                   
                  道元禅師 「正法眼藏」 より 
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             水を汲み上げるのではなく、自分自身がすっぽりと水の中に入ってしまうことだ。 
             「水を汲み上げようとする」・・このことは、ヒトの”はからい”である。(浅はかな計らいでは、到底、・・・・・・・) | 
          
          
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            出 隆(いで たかし) 氏は、 | 
          
          
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                  「溺れる者は、浅いところで、自分の心の重みで溺れている。 
                     身も心も水に預けてしまえば、自ずから浮かぶものである。」 
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            | その7 | 
             ある若い自殺志願者から電話 | 
          
          
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            ○ ある若い自殺志願者から電話があった。内容は次のごとくであった。 | 
          
          
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             「周り中の全てが私を裏切り・そむき・見放した。もう生きる気力もなくなった。」 
             「しかし、ちょっと気に掛かることがあるのですが・・・。」という。 
             何が気に掛かるのかと問うたら・・・ 
             「南無阿弥陀仏」と唱えながら、首をつったら間違いなく仏様の世界に行けるのでしょうね? 
             
             氏は、応えていった。 
             「止めておきなさい。」・・・・怒鳴った。 
             「あなたのこしらえ物のナンマンダブツが何の力になるのか?!」 
             「止めておきなさい。」 
                            
              
            
            
              
                
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                  『これは意外!』 
                   
                  という雰囲気が 
                   
                  電話機を通じて 
                   
                  伝わってきた。 | 
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                   『ではどうすればよいのですか?』 
                   
                   「あなたは周囲の人間が自分を見放したと言って死のうとしている。」 
                   「周り中のみんなだけではなく、あなた自身が、今、あなたを見放そうとしているではないか!」 
                   
                   「自分自身さえも見放そうとしているあなたを見放さないで、『どうか、生きてくれ!』と、ひたすら叫んでいる叫び声が聞こえないのか?!」 
                   
                   『何処にもそんな声は聞こえません。』 
                   
                   「何を言っているのか?!」 
                   「あなたは今、呼吸をしているではないか?!その呼吸が、今死のうとしているあなたに『どうかしっかり生きてくれ!』という叫びではないか?!」 
                   「心臓が、『辛かろうがどうか考え直して生きてくれ』と叫びながら、ひたすら動いて叫んでいるではないか!」 
                   
                   「これが本当の南無阿弥陀仏だ!」 
                   
                   「『助けてくだされ!』という声より、 
                   『助かってくれ!』という願いの絞り出すような叫びが本当の南無阿弥陀仏なんだ!」         → 
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                         「これにであわなんだら、生きても死んでも、あんたの人生なんぞ空しいんだ!」 
                         『大変な考え違いをしていたようです。』と、電話の向こうでつぶやいていた。 | 
                       
                    
                   
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             恐らく、首つりは止めてくれたことと思う。 
             
             そんな自殺の相談も多い。 
             「どんな辛さも願いの中なんだ!」ということが解ると有り難いのだが・・・。 
             
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            | その8 | 
             5歳の子供の詩に学ぶ | 
          
          
             | 
             幼稚園の5歳の子供の詩 | 
          
          
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                  「『僕の舌動け !』 というたときは 
                     もう 動いた後や      
                  僕より先に           
                      僕の舌 動かすものはなんや ? 」 | 
                 
              
             
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             5歳の子供が、「自分の”生きているという存在”のそこに、働いてくれているものがある。」ということを感じているのですね?! 
             
             自分(東井氏)は、25歳にもなってから目覚めさせてもらったわけですから・・・・。 
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