思索の庵ー4
編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
          
 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・。 
 待ってます 
メール
 「ご案内」 
貴方は人目・アクセスカウンター 番目のお客様です。 ようこそ!
 


4 「木曽のなぁ〜♪ きその御嶽山は〜 なんじゃらほぃ♪の巻
                                             12月7日
******************
 仕事の仲間の有志が集まって、木曽福島の在る宿で、『松茸つくし』とて宴会を行った。
 現地集合とて、ある者はゆったりと鉄道で、或いは自家用車でめいめいに小旅行を楽しんだ。
   小生は、車でゆっくりと風景を楽しみながら気ままに、ノタリノタリかな・・・と、出かけた。

   お宿の近くまで行くと、『ホッ!』とした。そんなときに神社らしき建造物があった。

(1) 『御嶽教 木曽大教殿』
  
そこは、『御嶽教 木曽大教殿』であった。「ご自由にどうぞ!」と、白い紙に解説があった。
  向かって右前に、写真の立像。
  
 帰宅後、じっくりと読ませて頂いて、
管長(当時) 大桃吉雄氏の解説文に惹(ひ)かれた。
  以下、一部分を抽出してここにご紹介します。

******************
◇  「生涯修行」  御嶽教 第十一代管長 による

 毎日樹上で座禅を行じている風変わりな和尚に興味を示した白楽天が、
樹上の和尚に「仏教とは何か」と問うた。

 答えは有名な                                      

 
 「衆善奉行  諸悪莫作 自浄其意 是諸仏教」

                   ・・・・である。

「良いことは多く成し、悪いことは寸事も成すべからず、             

     日常心を清浄にすること、これが仏教の訓しである」
                                         という意味だ。
 ここで、白楽天が立腹したというのも、慢心からのことで、
自身は有名な政治家であり詩人でもあるという自負心からか、
           「そんなことは三歳の童子でも知っている !」
・・・・・・・・・・・・・・と言い返した。

すかさず和尚は、

                   
「三歳の童子これを知るも、八十の老翁これを行い難し」
(三歳の童でも知っているのに、齢(よわい)80の老人になってもこれを行うことが難しいぞよ! )

・・・との頂門の一針に、深く恥じ入った白楽天は、以来この道林禅師に師事した。
終身勉学して、やがて我が国の平安時代文学にも大きな影響を与えた。

                        御嶽教第十一代管長 大桃吉雄

 補: 昔、中国に白楽天(本名は白居易、772年(大暦7年)- 846年(会昌6年)、中唐)という詩人がいた。その白楽天が、これまた仏教で名高い道林禅師(鳥?道林(741年 - 824年)、中国・唐代の禅僧)を訪ねた。
 道林禅師は松の木の上で生活しながら、仏教の真髄を追及したと伝えられる高僧。白楽天はこの禅師に会う機会を待ちかねていた。
        「白楽天と道林禅師」    
http://ryokeiji.net/howa/ht-hakurakuten.html

 また、               ******************                       

私が 私になるために 
  人生の失敗も必要でした
無駄な苦心も 
  骨折りも 悲しみも 必要でした

私が 私になれた 今
  みんな あなたのお陰です

恩人たちに手を合わせ
 ありがとうございます

    ・・・・と独り言
  

            おさ  はるみ

 御嶽教第十一代管長 大桃吉雄師は、紹介していた。   続けて・・

******************
つらいことがおこると
 感謝するんです
これでまた強くなれると・・・  
ありがとう

つらいことも悲しいこともピンチものりこえて
生きることが人生だと   
 言いきかせるのです
自分自身に ありがとう

                              作者不詳

 また、御嶽教第十一代管長 大桃吉雄  は、

******************
たどりつき       
 振り返り見れば
山川を        
超えては 超えては
 きつるものかな


                       河上 肇(政治学者)
******************
 家庭の教育論に及び、・・・                                
(しつけ)とは 物事をし続ける事であります。             

裁縫
(さいほう)では仕付けは着物の仕立てが狂わぬように、粗く縫っておく事で、
その後を追うように崩さないで真似ていくのを本仕立てともうします。   

いわゆる「学ぶ」は「真似ぶ」こと。
               

                     
御嶽教第十一代管長 大桃吉雄
 ・・・と述べ・・・                                     
******************

蛞蝓
(なめくじ)の先は見えねど跡残す

                                作者不詳

 ・・と、ひたすら生きることに意味があることを述べ、・・・・
******************

 
女あり  二人ゆく                 
 若きはうるわし 老いたるは なおうるわし

                              ホイットマン
  と、・・・・。

      御嶽教第十一代管長 大桃吉雄 師 の 解説を 抜き書きして
  そのままご紹介した次第です。

最後に、                                               
   

 「充実した一日が、さわやかな眠りをもたらすように、

         立派に使われた一生が、心地よい死をもたらす。」


                  ・・・・・・・・・   レオナルド・ダ・ヴィンチ


        ・・   が引用されて、  「合掌」と、 終わっていました。        
******************

    感想は、ご訪問頂いた皆様にお任せいたします。





(2)  萬松山 興禅寺・・・木曽義仲の墓をお参りした。            
萬松山 興禅寺について
宗派名 住 所 本尊 開山
臨済宗妙心寺派 長野県木曽郡木曽福島町5659 釈迦如来 円覚大華


 勅使門をくぐると緩やかな坂。
 左に、上の写真の路が空いている。
 正面には『大悲殿』観音堂。

  注:・・平安末期の古代様式。S2年焼失、9年再建。

 治承4年(1180)源行家が以仁王の勅使として平家追い討ちの令旨を、この門を通り観音堂において義仲公に伝えたので、この名前が付いた。

<この頃の歴史>


治承4年(1180)・・・尾張・三河の源氏蜂起する。
  8/頼朝、伊豆より挙兵し、       
 10/京に入らず鎌倉に入る=京に入ると、平氏のごとく貴族の思うままになってしまう。ここに侍所(さむらいどころ)を設置。
 平氏との戦いには、弟の義経を派遣。一ノ谷の戦い・屋島の戦いで、平氏を伐つ。兵火は興福寺・東大寺を焼亡。
 
 等があった。



V


○観音堂・・本尊は義仲公が深く帰依した。金銅仏で、推古朝時代の作。S30年再建。
○本堂・・ 「方丈」の看板。12間×10間木曽檜造り。前廊下は木曽檜の通し板。中央の合天井は義仲公お手植えの三本檜の根杢。

○ 下の石碑は種田山頭火

”たまたま 詣でて 木曽は花まつり”
女あり  二人ゆく・・
思い出した。

山頭火
と言えば、
「からす泣いて 私もひとり」

・・と、言う句があった。
一人で歩きながら、そう思った。

 
放浪の俳人・尾崎放哉。一高、東大を出て、一流企業に入ったのに、

すべての財産、職を投げ捨てて奥さんとも別れて、ひとりで放浪の旅に出た。

 最後は結核を病んで、四国の小さな寺のさびれた庵で息を引き取るわけだが、

そのころ「咳をしても ひとり」 という俳句をつくっている。 

大宇宙を前にしてたったひとりの自分がそこにいる、そういう感覚というか自覚だったのであろうか。

 その放浪の句を聞いて、
種田山頭火が感動して、「からす泣いて 私もひとり」 

と和している。


                        
  ☆ ”二十億光年の孤独”   詩:谷川俊太郎
 人類は小さな玉の上で
   眠り 起き そして働き
     時々、火星に仲間をほしがったりする。
 火星人は小さな玉の上で
   何をしてるか 僕は知らない

  あるいは ネルリし キルリし ハララしているかも・・・
    しかし、時々地球に仲間をほしがったりする
         それは全く確かなことだ

  万有引力とは、 引き合う孤独の力である

  宇宙は歪(ゆが)んでいる それゆえ人間は求め合う
    宇宙はどんどん膨らんでゆく
     それゆえ みんなは不安である

   二十億光年の孤独に
       僕は思わずくしゃみをした
                        


                       
 御嶽山       MHK:週刊 「日本の名峰」より 2008.12
 古くから信仰を集めてきた。今も山に願いを込めて登る人々が途絶えない。

 早春の御嶽山に日の出・吹雪。遮
(さえぎ)るもののない山に猛烈な季節風が吹き付ける。気温は氷点下三十度以下。風速は60メートルを超える。
  3Km四方に及ぶ御嶽山(3067m)の広大な山頂部。その中に点在する火口は雪に覆われている。
 雪に閉ざされた霊峰は、夏の山開きを静かに待つ。
 名峰を3D地図で見る御岳山
(右上)
 今回は、長野県の黒沢口を出発地とし、3合目から4合目に見える原生林を抜けていく。
 8合目から山頂部の外輪山を巡り最高峰の剣が峰(3067m)を目指す。

 裾野、7月御嶽山のふもと集落・木曽町三岳は、巡礼の人々でにぎわう。

 ここから始まる山道は、江戸時代
に覚明という僧侶によって開かれた。
 1〜4合目まで、沿道に石碑が尽きることはない。
 人々は先祖の魂を供養し、願いを叶える為に頂を目指す。巡礼の無事を祈って山へ入る。

 夏、緑の山裾を広げる御嶽山(左上)。その広さは900平方キロ・琵琶湖をしのぐ面積である。
 山の中腹には、シラビソ・トウヒ・ツガなどの針葉樹の森が広がる。

 ホラ貝を吹きながら登る信者。”六根清浄〜”と、繰り返し唱えながら・・・。全国から集まってきた人々が列をなして進む。

 登山道を離れ、森の中へ一歩はいると、不思議な風景が広がっている。岩に絡みつく木の根。
 この辺りの針葉樹は、ゴツゴツとした溶岩の上に生えている。

 溶岩の荒れた山肌には、根はしっかりと下ろせない。
 そこで木々は倒木の上に根を張る。若木は倒れた木から養分をもらって育つ。
 この木下には、かつて倒木があった。
 倒木は若木に養分を与えて朽ちていったのだ。こうした命の再生が繰り返され、森が育まれてきた。

 滝。巡礼のみちすがらに滝がある。
 滝の水は山から溢れる聖なるものとされている。

 標高三千メートルを超す独立峰・御嶽山に太平洋の湿った風がぶつかる。
 そのために雨雲が生まれ、大量の雨が降る。

 標高2690m日本でも有数の高さにある滝である。頂上付近に降った雨を集めて流れ落ちる。
 雨の多い時期にしか現れない為に「幻の滝」と呼ばれる。
 山中にある滝は千二百を越える。
 龍門の滝・水の流れが岩盤を削り天然の石橋を造った。まるで龍のように見えることから名付けられた。

 太古からその姿を変えない・「不易の滝」・山の伏流水が岩から吹き出している。

 8合目、山頂部の外輪山が目の前にそびえ立つ。ウグイスが鳴く。
 巡礼の人々は外輪山を越えて、その中を巡っていく。
 高山の中でも特に風の強いところに生えるのはガンコウラン・樹木であるがその太さは10年間で1.5mmしか成長しない。ゆっくり成長し、養分の乏しい環境に耐えている。
 巡礼の人々は、外輪山の内側にある火口へと向かう。火口が湖となった「三ノ池」。
 水深は十三mある。水は「ご神水」として大切にされてきた。
 荒れた火山の大地が広がる。山中の自然は、この世とは別の異界に見立てられる。
 噴煙を上げる風景には地獄を見る。
 お花畑には極楽を見る。イワギキョウ・クモマグサ・コマクサ
 山の自然が造る地獄や極楽。その中で己を鍛え心を安らかにする。
 御嶽山の最も高いところ・剣が峰(3067m)。登ってきた苦しさを忘れさせてくれる風景が広がっている。
  10月、麓のカラ松林が色づく。山麓が紅葉に染まる頃、御嶽山の頂は冬を迎える。夕方から霰混じりの雪が降る。翌朝、北アルプスの峰峰とともに御嶽山も一面真っ白な雪景色となった。
 人を容易に寄せ付けない冬の頂は、神や仏だけの領域とされる。
 御嶽山は、神秘の自然が人を惹き付ける名峰である。

  
 「ご案内」