思索の庵 11

"The hermitage of the speculation"

編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
 書物の中で、感動を受けた言葉や章を、ご紹介させていただきます。
 少しづつご紹介し、必要なら感想も述べさせていただきます。

   メール 待ってます

 「ご案内」 


 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指します・・・・・・。 
貴方は人目・アクセスカウンター 番目のお客様です。  ようこそ!


******************
11 歴史の必然:「うねり流れ」の考察     3月13日 
******************
1 自然界の”山”・”川”・”湖”の静かな変化・移り替わり








 ヒトの体温も、恒温(定温)とはいえ、一日一定の周期で変動をしている。
 朝起きた時、行動を開始したとき、午前中と午後・・・・・、周期的な波を示している。
 決して、常に一定ではない。
 また、
 大きな時間の目で見ると、生命は誕生して成長し、やがて老化して死に至る。・・・・・が、また新しい命が誕生する。
 単細胞から多細胞生命になって、動作が鈍くなってやがて死に至るのである。この波をくり返していると言ってもよい。
 宇宙の星の誕生も同じである。
 この宇宙も・・・・、そして、原子の誕生と生成も同じサイクルがあるのである。
 ・・・・・・・・・。
 山は、一粒づつの土が流れて、やがて、平原となる。
 同じように、ヒトの社会も大きなうねりと共に変化している。



    川 と 山
 雨が降ると
  静かに、大地に浸み込む

 更に、雨は降り続けば・・
    水は、地表を這
(は)って
 やがて
    小川となる。

 小川は、地肌
(じはだ)を削りながら
   水は、下流に向かって 流れて進む

 進みながら、小川は
   いつしか 大河の流れとなる。
 
 太古の昔、
  それは
   地球の生まれてまもない頃
    大雨が降り続いた  ・・・

 およそ、二千年もの間
  雨は続いたという

 そうして 海ができた。
 大きな広い海が生まれ
     ・・・ 山ができた。

 長〜い間、静寂が続いた。  やがて
  およそ38億年前に、”命”が誕生した。

 その後に
 地球全体が、2億年もの間
     氷に包まれた時期もあった
 しかし、
 いのちの営みは、途切れることなく
 以後、脈々と続いてきた  ・・・
 たびたび・・・
  地下深くから、マグマが吹き出して
   山脈が破壊されたりもした

 雨は、山を少しずつ流し
 時には、河が岸を削り取り、水は流れる
  隕石の落下もあった。
 この地球上には、大変な気象変動があった。
 しかし、”生命
(いのち)”は,途切れることはなかった。

 誰も覚えていないことだが、
  これが真実だ。
        ・・・・。
 湖もできた。
 
湿原草原 

 湖に、生物が生息し

  湖畔には、鳥がさえずる。

 静寂な営みは、大きなうねりのように継続している。
  湖は、いつしか湿原になる。

 湿原は、やがて・・・
      草原と化す。

 宇宙時間で、山河を俯瞰
(ふかん)すれば
 ”自然”は、常に変化して止まない。

 これが、大自然の営みなのだ。

 山は消えたり 生まれたり・・・

 しかし、”いのち”は、決して途絶えることはなかった。

  
”自然”の悠久な流れ・動きについて考えた。・・で、
       下の文が符合して納得できた。


村・組織・国





六地蔵、
            

過疎化する:村

空洞化する:国

形骸化する:組織

今は、

それを見つめているか。


 「禅と陽明学」 安岡正篤 より、栄枯盛衰の歴史観 を学んだ。

 
人間一人ひとりの心の中にも、いろんな起伏がある。

 歴史を眺めると、動きとうねりの根底に、

以下のごとき”因”を宿している。

 改革を希求する我が国は、

一体、どう方向を見付けるであろうか?!
  
「宋名臣言行録」 に   ・・・

「事に臨むに

 三つの難き事あり。

 能くみる、一なり。

 見て行う、二なり。

 当に行うべくんば、

  必ず果決す。

       三なり。」


        と、あった。
 物事を処するには、三つの難しいことがある。
それは、
 ことの現象を、正しく公正に見定めることだ。
 二つ目は、
 見たらすぐに対処すること。

 適切に正しく対処実行できれば、
 必ず、事は成る。
 これが三つ目だ。

 
・・・だが、なかなか見えない!??
 「観自在」が難しい。


             苦縁讃  
    ******************************************************

 「国は悪によって滅びるのではなく、
  その愚によって滅びる」


  ・・・・ 土光登美(土光敏夫の母)

 
「愚」とは、現状に甘んじた思考停止、
  行動停止のことである。


  ・・・ 井原甲二


    ******************************************************
 『愚』について 付記     ☆ 「法句経」 ダンマ・パダ 一日一話  A・スマナサーラ より ☆
                       
  
「16 今なすべきことに意識を向ける」
 なすべきことを、なおざりにし、               
 なすべからざることをなす。

遊びたわむれ放逸な

(今の瞬間に気づかない)者には、

 煩悩が増大する。
 ”能くみる、一なり。”

 
教育者は、子供の成長を観ればよい。
 政治家は、国家の将来を賢明に観ればよい。
 当たり前のようだが、実は、これが観られない!!
 先ず、自分の立場を考えて”構える”。
 責任の所在を考えてから、打算が先に脳裏をかすめて走るのである。

           苦縁讃
 
 人生とは、瞬間瞬間の連続です。わたしたちは、瞬間瞬間を生きることしかできません。そして、今の瞬間になすべきことは具体的にあります。
 たとえば、話を聞くことであったり、皿を洗うことであったり、ものを片づけることであったりするわけです。
 正しく生きるとは、今なすべきことをよく知り、それをきちんとやるということです。今、この瞬間になすべきいことだけを、きちんとやればいいのです。では、そのあとはどうすればいいのかといえば、また、そのときそのときになすべきことを、ただやるだけでいいのです。つねに今なすべきことに、意識を向けてゆくのです。そうすればとてもシンプルな生き方になります。
 ところが、わたしたちの生き方がなかなかシンプルにならないのは、過去を振り返り、先のことを心配したりして、「今、ここ」にいることが難しいからです。そのためには、ものごとを漠然と見てはいけません。具体的にやるべきことが見えないと無用な不安が生じてくるからです。(中略)
 いつも「ああ忙しい、忙しい」と嘆いていては、追い立てられているように日々を送っている人がいます。
 ところが、その人の生活をよく観察してみますと、本当に忙しいのではありません。忙しくて時間がないのではなく、雑事に追われて混乱していて、心が落ち着かないだけのことなのです。だから、忙しいと感じてしまうのです。
 仕事や家事を「巧みにこなす」ことができれば、「忙しい、忙しい」と焦ることはないでしょう。(中略)

 では、「巧みな人」になるには、どうしたらよいのでしょうか。
 お釈迦様は、「今、行っていることについて、正しく気づくことだ」と説いています。 (略)
                         
                         

2 栄枯盛衰・興亡の歴史観 (五つの過程)・・・ 「禅と陽明学」 安岡正篤 231頁 より
注:”器” ・・・・  朱子学や陽明学では、現実の物象をといい、その根原をという。 ・・・・・・      「漢字源」より
A 撥乱反正(はつらんはんせい)




 人間の歴史というものも常に動乱から始まる。
 不安、動揺、混沌、動乱から始まる。
 その人の世の動乱、矛盾、衝突をおさめて、正しきに反
(か)えす。
 乱を
(おさ)めて正しきに反る。 いつでもこれが時代というものの基点です。
 ところが撥乱までは終始やるが、撥乱して正に反ることもあるし、正に反らないこともある。
 乱を撥
(おさ)めて正しきに反(かえ)ることもあるし、正に反らないこともある。

 撥乱までは始終あるがせっかく乱を治めたけれどもても、不幸にして正に反せなかった。正に反らなかった。
(ここに満州事変:昭和6年を例に説明している)

 これを撥乱独裁という。




 注: 少数派意見を排除したりして耳を貸さない風潮がある内は、まだ、不安、動揺、混沌、動乱は、起きないであろう。
  しかし、従来の体制やリーダーに対して、不満や批判が爆発・噴出してくると、体制変換の動きが起きてくる。
 ”明治維新”前後の動きを連想する。
 企業や政治の世界にもある。自分の心の中にもある。五つの過程。
B 創業垂統(そうぎょうすいとう)







 
乱を撥(おさ)めてできあがった統一、秩序、組織というものを後へ伝える。
 新しい業を創
(はじ)めて統を垂れる。後へすじを残す。
 「創業垂統継ぐべきをなす」と孟子も言っている。つまり撥乱反正をやって、乱を撥
(おさ)めて出来上がった統一、秩序、組織というものを後へ伝える、統を垂れる・・・創業垂統(そうぎょうすいとう)に成らなければならない。
 自然は永遠ですから、また道というものは無窮なのだから、人間、人格が公平無私、大公無私、あるいは別の言葉で言うならば寛仁大度、呂新吾でいうと深沈重厚というように、撥乱反正から創業垂統で後を残さなければいけない。
 一時で終わってはいけない。その意味においては徳川家康などというのは確かに偉いですね。三世紀にわたる創業垂統をよくし得た。(略)


 注:『よらしむべし 知らしむべからず』と思考停止、行動停止の愚を諫めることができるであろうか?
 単なる”少数派”に終わらないで、・・・・・・。
  ちゃんとした、信頼して従うことの出来るリーダーが、やはり社会には必要なのである。
 政治家とは、『タレント』ではない。人気稼業ではないのである。
 政
(まつりごと)の尊厳性がすっかり何処かに失せてしまったか?!

      
<☆ ここで『よらすむべし・・』は、俗な解釈で引用した。本来は違うが・・・。>
C 継体守文(けいたいしゅぶん)













 
この文というのは法律とか制度とかいう意味ですね。
 創業者がつくった組織、文化、法制、そう言うものを守っていく、継体守文。
 あるいはこれを「保業守成」・・・業を保ち守り成す。
 創業の人物は磊落豪雄
(らいらくごうゆう)、英邁で道に近い、自由自在である。創造的である。
 それが保業守成になるとだいぶ道が器になる。手堅くなってくる。間違いがなくなってくる。
 継体守文、つまり保守的になって、なおかつ道に近く、創造的で、自由で、型にはまらない、生命力が旺盛であるということは難しいのです。
 できあがった組織を受け取ってそこに出ているいろいろの法令・制度そのものを踏襲してゆくということになると、どうしても型にはまる。つまり融通が利かなくなる。
 つぶしが利かなくなる。これが保守の弱みです。 (略)
 ちっとも進歩しない。だんだん魅力が無くなる。
 それは弊害を除去するのにラジカルどころではない。まったくメスが立たない。
 そこに非情にデリケートな意味がある。
 しかし、ここまでは器的であってもまだ手堅い。
 間違いのないところがあるが、人間の生命というものは型にはまってくると、必ず衰えてくる。

注:諸事が「前回のとおり」「昨年のごとく」進められる。従って、初心は忘れ去られて、新しい工夫がない。
 創業の頃の精神はすっかりと忘れられて、ついには形骸化する。
 万事が「・・べからず。」で、規則ばかりが多くなり、堅苦しく活気が消えてゆく。
 『前年度のとおりです!』と、したり顔の報告で済んでしまう。
 逆に、前回と異なる規格には抵抗や反抗をしたがる風潮が生まれたりもする。形式ばかりが重んじられて、物事の本来の目標は霞んで住まう。”こころ”が籠もらない企画と運営となり果てる。
 ”Policy・ポリシー”などは、陰もない。
 『キマリですから・・・・!そういう規則なので!』と、事務的な業務で、事は進められていく。
D 因循姑息(いんじゅんこそく)






















 
第三期にはいると必ず「因循姑息」というものになる。
 なんでも事なかれ主義で「まあまあしばらく」ということになる。
 なんでも危なっかしいことはやらない。「まあまあ」で、何もせぬ。
 「悪をなさず、善またなさず」で、悪いことも良いこともしない。因循姑息ということになる。
 ところが個人の生命より以上に、もっと大いなる生命の流れ、時代、民族、社会というものは、いわゆる創造、変化、造化で駸々
(しんしん)として止まらない。日進月歩である。 一方が足踏みしているとその結果不安動揺ということが起こってくる。
 これを因循姑息では乗り越えられない。
 そうすると、この不安動揺がだんだん混乱頽廃というものになってくる。
 そこで革命というものの要求が起こってくる。
 そうしてこれが、撥乱反正へ反ればいいんだけれども、天運循環というやつで、反正に反らないと、ますます混乱が激しくなって破滅、そのまま亡びる。その次には滅亡ということが来るわけです。
 幸い運があれば、ここへ返ってくる。
 その返るのにえらい外科的手術を要するものが革命である。
 それほどの犠牲を払わずに、痛い目を見ずに割合スムーズにゆき、内科的にいけば、これは維新というものである。
 日本は外国に比べると、国体は革命国体ではなくて維新国体である。明治がいい例である。 (略)
 来るべき時勢が維新でゆくか、革命になるかというところが混沌として見分けがつかないというのが現在の状態、革命へゆくほど道が衰え、器になってくる。
 反対に、人間が道に近づけば、あるいは道によればよるほど維新へくるわけです。



 注:
 
「事なかれ主義」とは、良心が失せた集団のことである。
 『まぁ、止しときましょう。結果を上司から攻められても、利にかなわない?!』。
 『面倒なことはしなくとも、ここは大樹の陰に隠れて、自己の存在だけを適当にアピールしておこう。』・『遠い将来の組織や社会がどうなろうと、当面、自分に利があるか無いか???』など、内心自問自答し始める。
 こうなると、もう、しばらくこんな状況から脱出は不可能となる。
 更に、上司には、部下の声がまったく聞こえなくなる。声はあっても本音は別にあるからである。
 ・・・・。
 末期的な症状は、『内部告発の勧め』等という、奇妙で無責任な現象を、真顔で待つことになる。
 以下は、キーワード
因循姑息」に関する評論である。
注:因循姑息(いんじゅんこそく)に立ち向かうのは誰か?
 与野党の別なく吹き出す金銭に纏(まつわ)わる「不正疑惑」の数々。
 疑惑追及に瞳を輝かせた言葉の連射とは裏腹に、未練たっぷり、意気阻喪して職を辞す市民派議員。その連射を受けても強かに涙を見せて居据わる辣腕
(らつわん)政治家。
 さらにさらに、政界のプリンスと称されながらも、一敗地にまみれ辞職を余儀なくされた政権政党の有力議員。そつのない語り口と慇懃
(いんぎん)無礼な物腰で、責任転嫁の言い訳に終始し野党第一党を離党しただけの大物(?)議員。・・・・その後も出てくる出てくる、政界まるごと「疑惑の総合商社」。国民を愚弄(ぐろう)するのもいいかげんにしてもらいたいものだ。辟易(へきえき)して言葉にすらならない。
 国民にはデフレ、金融不安、深刻な不況、企業倒産、失業者の増大、という凄まじいばかりの過酷な「痛み」を押しつけて、なにが構造改革だ、なにが行政改革だ、なにが金融改革だ。
 百歩譲って、ペイ・オフも不況もデフレも、グローバライゼーションも自己責任も、わが国の将来を考えれば受けざるをえまい。だがしかし、政治や行政、あるいは金融機関のこのあまりの杜撰さ、無責任さは何事であろうか。まともな政治や行政、構造改革や行政改革への真摯
(しんし)な取り組みを前提とすればこそ、すべての国民は必死に「痛み」を受容し、歯を食いしばって努力しているではないか。政治家や高級官僚達、世界一を標榜する銀行の経営者達には、国民のこの痛みなど皆目わかっていないのではないか。
 国民ぐるみの因循姑息もここまで来れば、後は滅亡あるのみと言わざるをえないが、われわれは、いまここで座して窮するわけにはいかない。
 われらが祖国日本の衰乱をなんとかしなければならない。
 われわれ国民が挙って立ち上がり、祖国再建に奮闘しなければならないのではないか。
 国民が意識を変えなければ、政治も、行政も、教育も、社会も変わるまい。
 われわれ自らがなんとかしなければ、抜き差しならないところにまでわが国は陥っている。
                    略
 われわれは、いまこそ「理念と信念」を確立し、果たすべき「役割と責任」を十分に理解し、人々の成長を促す精神的、環境的風土を建設し、柔軟な戦略と戦術を駆使して、「安らかな良心」を手にするために奮闘すべきだ。          略
                           莫々山人
E 撥乱独裁(はつらんどくさい)











注:”器”

朱子学や陽明学では、現実の物象を器といい、その根原を道という。

「漢字源」より

 
革命へゆくほど道が衰え、器(注)になってくる。
 反対に人間が道に近づけば、あるいは道によればよるほど維新に近づく。
 これが道を失うと、撥乱独裁になる。これは驕慢放奢
(きょうまんほうしゃ)になる。人間の悪の面が出てくる。必ず上に立つ者に阿諛(あゆ)迎合が始まる。(略)
 秦の宦官・趙高
(ちょうこう ? 〜 前207)は、秦の始皇帝が亡くなったら二世皇帝(前229〜前207 趙高に殺される。)にたいしてどのくらい家来どもが忠誠心を持っているかということを調べようと思って、ちょうど秀忠が亡くなった時に栄光を擁して、阿部忠秋や土井利勝がやったと同じようなことを少しばかげてやった。
 人間の知恵というものはあまり変わらない。
 群臣を集めて、鹿を献上したものがあるからみなに見せると言って馬を見せた。
 そうしたら「これは馬ではないか」といった者があった。
 「鹿である」といったら、「さようでございます」といって皆おじぎをした。
 それで「馬鹿」という言葉があると伝えているんだが、これは極端な例だけれども、そういうふうになるのですね。
 幕末の落首にもある。「世の中は左様でござる、ごもっとも、何とござるかしかと存ぜず。」というようになる。
 そうなると、我こそは気に入られようと自分こそその恩寵
(おんちょう)に与ろうと嫉視排擠(しっしはいせい)というものがおこる。
 お互いに嫉視排擠する。

 注:さぁ。ここまで来れば・・・・。もう、改革・刷新(さっしん)が急がれよう。
  このように腐乱した世界で、企業や組織の一部を任されたら、”出世”の名誉もヘッタクレも有ったものではない。
 ”義”のある者に、出番はないのだ。
  彼は、静かに黙して、密かに一人己の人生を意義在るものにする努力しか残されてはいない。
  自己の研鑽に励むしかない。
  ところで、「自然・社会」の流れは悠然として静かに継続して、この大きなうねりの営みの中にいる。
  ”いのち”と大いなる意志が繋がって、悠久なうねりとなって働いている。
                                             
 ・・ 苦縁讃
 <略> 結局つきつめて言うならば、人間が健全であるか、頽廃するか、ということの二つに帰着する。
 人間というものは、苦難の中から成功するものであるが、いざ成功すると、容易に頽廃・堕落して、やがて滅亡する。
 これはいつの時代でも同じ事でありまして、人間は性懲りもなくこれを繰り返してきているきておるわけであります。 <略>
  
                                    
・・・・人間学講話 「論語の活学」 安岡正篤より
                 
 リーダーの条件なんて簡単だと思ってるんですよ。 「フェアで厳しい」これだけでいいんです。
 だから「上三年で下を知る「下三日で上を知る」と言いますね。

 部下は三日で経営者の本質を見抜くんですよ。私たちの組織や部下は、私たちのもう一つの鏡なんですね。
それに気づかないで、下は上の気持ちがわからないと言う。
 何をいっているかと言いたくなります。あなた方は三日で見抜かれていますよ。
 だから部下は生き抜くために、あの手この手で褒めたり貶
(おとし)めたりしながらあなた方の目を眩(くら)ませるんですよ。
 だからあなた方は部下の本心をわかるのに三年かかるんですよ、と言いたいですね。

                                                     ・・・・    ハンディネットワークインターナショナル社長 春山 満
                               **************************     **************************
 ないものばかり数え上げて、欲しがって、
 他人から見れば、あり余るほどの幸福を得ていながら、
 その幸福さえ不満としている自分の強欲さ、貧しさ、放漫さ、愚かさをつくずく思い知らされた。

                                                     ・・・・ 月刊誌 「MOKU」 元編集長 井原甲二
3 能く観たい (五つの眼)・・・・・「仏教語大辞典」中村元著 から  トンボは複眼の昆虫だ。
 また、蜘蛛(くも)は、五つの眼を持つと言う。

 ひょっとしたら、蜘蛛はこの五限を持っているのだろうか?? (@_@)

 否定する科学的な根拠は、まだ無い。・・・・が、戯れでそんなことを言ってみた。

 ところで、人の肉眼は本当に当てにはならない。乱視・近視・老眼・・・・でなくても、
その気にならないと、眼だけではなく五感のすべてが曖昧である。
    
 ・・・ 苦縁讃
 ☆五 眼 (ごげん)
肉眼
にくげん
 肉身に所有している眼。
 肉眼は、清く澄みとおって、何ものも明らかでないことはなく、・・・
仏説無量寿経
天眼
てんげん
 色界の天人が所有している眼。超人的な眼。普通に見えないものでも見る能力。
 あらゆるものを見通す能力。神聖な眼。あらゆる世界の事がらを見通すはたらき。神通力によってすべてのものを見通す智慧の働き。
 天眼は、自在に無量の世界を見とおし・・・
仏説無量寿経
慧眼
けいげん
 二乗の人の眼で、真空無相、すなわち一切の現象は空であって、定まった特質(相)がないと見抜く眼。
 惠眼は、平等の理を照らして、あらゆるものは真にして空であるとの義に達し、
・・・仏説無量寿経
法眼
ほうげん
 菩薩が一切の衆生を救うために一切の法門を照見する眼。
 法眼は、差別の相を観じてもろもろの道を見きわめ、・・・
仏説無量寿経
仏眼
ぶつげん
 上記の四眼を全部備えた仏の眼。
 仏眼は、まどかにすべてのものの本性をさとり尽くして、・・・
仏説無量寿経 



☆ だが、結局は・・・ 
  努力しながら・・・・、それでも、尚、大きな抗えないうねりの中に彷徨える人々の心と社会状況・・・・。
 ・・・・・・・。
 それから・・・・・・!? それで・・・・?! どうなるのだろうか? ・・・・・。人類。

 「ご案内」