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   "The hermitage of the speculation"   

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 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」 そんなページを目指したい・・・・・・。 
      編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)     
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 「維摩経(ゆいまきょう)」から考えるの巻     12月26日
           
ー そして、「ガマの油売り」に学ぶ ー


西暦 維摩経に関する歴史など
615 聖徳太子等、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611年・維摩経義蔬:613年、法華経義蔬:615年)」完成
 この年、玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。
617 この年、五穀が豊かに実る。
 中国で、善導(〜681)生まれる。<=親鸞が七高僧に挙げる僧6。=>幼くして出家。三論宗に入り「維摩経」や「法華経」を学んだ。その後「観無量寿経」を一心不乱に学んだが、29歳のときに玄忠寺の道綽禅師に会う。この後長安の光明寺に住んで広く大衆に門戸を開き念仏を勧めた。「観経疏」を著し、これまでの「仏説観無量寿経」についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の仏の本位であることを明らかにした。

 T 『仏説譬喩経(ぶっせつひゆきょう) のお話によれば・・・・!!              
                  
・・・・  「維摩経を読む」   菅沼 晃  NHK出版 から
 維摩は自分の病気にことよせて、この身がいかにはかないものであるかを、実に多くの譬喩をあげて説いている。
 はかなく、無常なものの例として、水のしぶき、泡,かげろう、幻、夢、影、こだま、浮雲、いなずま、風などがあげられる。

 
「この身は古井戸のようなものであるという」譬喩は、『仏説譬喩経』という小さな教典に説かれている次のような物語によっている。

 古井戸の喩え               ・・・・  「維摩経を読む」   菅沼 晃  NHK出版 から
  一人の旅人が荒野を歩いていると、岩陰から突然、一頭の象が現れ、旅人に襲いかかってきました。
 旅人は必死の思いで逃げるうちに、目の前に古井戸を見つけました。
 そこで、
 彼は古井戸にたれ下がっている一本の細い木の根を伝わってそこへ向か って降りていきました。
 ほっとして下を見ると、井戸の底の四隅には四匹の毒蛇が、真下には一匹の大蛇がどくろを巻いて、自分を狙っていることに気づきました。

 すると今度は、井戸の上の方でカリカリいう音が聞こえました。
 見上げると、黒と白の二匹のネズミが、かれのつかまっている木の根をかじっていました。

 さらに野火までが迫ってきます。まさに絶体絶命の状態です。

 あまりの恐ろしさに放心したようになって、かれは口を開けたままで井戸の上の空を見上げました。

 そのとき、口の中にポタリと一滴の雫が落ちてきました。
「甘い!」彼は思わず叫びました。
 それは古井戸の傍らの樹にある蜜蜂の巣から落ちてきた蜜でした。
旅人は、象・毒蛇・野火などの恐怖をすっかり忘れてしまい、口を開け、
思いをこらして次の蜜が落ちてくるのを待っていました。

  そして、こう解説があった。
この譬喩(ひゆ)のうち、
  荒野は迷いの世界、
 象は無常
 古井戸は生死の岸、
 細い木の根は生命
 二匹のネズミは昼夜(時間)、
 四匹の毒蛇は人間を構成する地・水・火・風という四つの構成要素、
 野火は老・病、
 大蛇は死、
 そしては、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる、という五つの感覚器官による悦楽を意味しています。
 旅人は、もちろん私たち自身です。
老・病・死・無常にせめられ絶体絶命の状態に追い込まれながらも、蜂の巣から落ちてきた密の甘さに心を奪われているのが、
私たちの日常的な在り方だというのです。
             (略) 
 老も病も死も、外部から襲いかかるものではなく、私たち自身にそなわっているもの、あるいは不可避的に引き受けなければならないものです。

 病にあい、老いに達し、死に向かう、それが人間存在のどうしても避けることのできない鉄則というものです。
 自覚のないママに迷いの世界にいて、
 何時かそれを自覚させられる。

 無常観も然り。
 白いネズミは”昼”。黒いネズミは”夜”。
 交互に出てきて、
    命の根っこを囓
(かじ)っては去っていく。
 いつか切れる”いのち”の根っ子。 


     
 
一週間が終わると、何故かホッとする。
 「休日だ!!」・・・と。

 しかし、良くよく考えればこのことは、
  自分の余生が短くなって喜んでいると言うことだ!?
 ことごとさように、
 つい、目先のことだけを考える。
 これが我々の現実なのだろうか?!
 生・老・病・死の四苦と・・・、まだまだ苦労は多い。
 四苦八苦だ。
 青春期、決して愉しくはなかった。自分(己)を生み出す苦しみがあった。
 振り返れば、本当に僅かに落ちて来るささやかな”蜂蜜の甘さ”に、未来の至福の世界を心に描いて、生きてきた。

 子どもの成長に喜び、孫の可愛さにすべてを忘れる。
 だが、間違いなく”死”に向かって進んでいる。
 毎日,老いは進んでいる。
 これは間違いない”いのち”の現実だ。
  ・・・・・・苦縁讃

さてさて、
                                            
1 荒野は迷いの世界・・・・。野田風雪 氏(仏教談話会主宰) 名古屋市在住 のお話よれば・・

  凡夫というは、無明煩悩われらがみに、みちみちて、
   欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、
  おおくひまなくして
   臨終の一念にいたるまでとどまらず、
     きえず、たえずと水火二河のたとえにあらわれたり。


                     
「一念多念文意  のことば」    親鸞

   人間は人間が解っていない → 欠点だらけ → 過信 横暴 執着 が生まれる。

    
自分自身を、正しく見つめることが出来たら・・・・ 迷いは無かろう?!   苦縁讃 

続けて・・・・・・・    ”迷い”と「迷いの性質」について
 
 仏教ではこう観る。・・・・・煩悩ゆえに、迷うと、・・・・・

 ◇ 根本煩悩(こんぽんぼんのう)とは・・・・・・・以下に示す 六大煩悩 を指す。      
 @(いかり)  A(むさぼり)  B(過信)  C無明(痴)  D(不信)  E(けん)
  じん      とん       まん      むみょう 
   ぎ

 人間の”眼”は確かか??

 
(1)  五つの「見」





有 身 見  (うしんけん) 自己中心の我(が)
辺 執 見(へんしゅうけん) 偏 見(へんけん)
見 取 見 (けんしゅけん) 有身見の強いもの:我執(がしゅう)
戒禁取見(かいごんしゅけん) 間違いと判っていても、自分の立場で押し通す
邪  見   (じゃけん) 考え方が間違っていて、しかも、無責任。言い訳ばかりする。
   
  
・・・すべての”見”は、それぞれのヒトの中にいる「我」が見る。いろんな「我」が交叉しながら、世間を見る。
  見るのは、『眼』だ。

 (2)  五つの「眼」
いろんな眼 肉眼 点眼(てんげん) 慧眼(えげん) 法眼(ほうげん) 仏眼(ぶつげん)
『仏教語大辞典』
 中村元 による
 四元素から造られている。
 煩悩具足の凡夫の眼。
 あらゆるものを見通す眼。
 あらゆる世界の事柄を見通すはたらき。
 神通を得た眼。六神通の第二。
 諸物が空であることを見る智慧の眼。
 哲学的洞察力。物事を正しく観察する眼。
 諸法を照見するまなこ。 まことを見る智慧の眼。
 菩薩はこれによって諸事象の真相を知り衆生を済度する。
 悟りを開いた者の識見。
 すべてを見わたし、一切を知る眼。
 「大慈悲心をもって衆生を見ることなり」:
「往生甲戌第四の250」
    注:広く・大きく・公平に・公正に・慈悲深く・・・・そんな眼を養いたい。・・・・苦縁讃

 (3) ヒトの眼の、見えない様(さま)      
「いのちの探求」 ー 大乗仏典に学ぶ  「夢幻の万象」東京大学名誉教授 鎌田茂雄氏
                      
聞き手  草柳隆三  NHK   によれば・・・・
一切(いっさい)の有為(うい)の法は、           
夢、幻
(まぼろし)、泡(あわ)、影(かげ)の如く、     
(つゆ)の如く、亦(また)(いなずま)の如し。
(まさ)に是(こ)の如きの観(かん)を作(な)すべし。      
                   
金剛経
 過去を振り返れば、昨夜の夢のようだ。
 新婚の頃住んだ家は、もうとっくに無い。
 あの頃可愛かった三人の子ども達は、
もうすっかり大人になって、別人のようだ。
そう言えば、私たち夫婦もすっかり爺と婆だ!

    
・・・・・  苦縁讃
まださめぬ        
此世
(このよ)の夢に夢を見て
いやはかなるる
身のゆくへかな

                   沢庵
 誰もが、皆、夢を持ち”希望”が在って、明日を待つ。
この先、思わぬことが待っていることを知らな
だけだ?!
しかし、何とか乗り越えてきた。

    
・・・・・  苦縁讃

仏、須菩提
(しゅぼだい)に告げたまう。
(およ)そ有(あ)らゆる相(そう)は、
皆是れ虚妄
(こもう)なり、
若し諸相
(しょそう)は相に非(あら)ざることを
見れば、即ち如来を見たてまつる・・・・
如来者
(にょらい)とは、従って来る所も無く。
(ま)た去る所も無きが故に、     
如来と名づくればなり。

                          
金剛経
 絶対他力の心に成りきりたいものだ。


    ・・・・・  苦縁讃
(も)し色(しき)を以て我を見、  
音声
(おんじょう)を以て我を求むれば、
(こ)の人は邪道(じゃどう)を行ずるものにして、
如来を見たてまつること能
(あた)わざるなり。
                
金剛経
 『そんなはずではなかった!』とか、
『裏切られた!』とか、
『許せない!』とか・・・・・の

 ”嘆き”節は唄うまいぞ!!

    ・・・・・  苦縁讃
色に住して心を生ずべからず。
声、香、味、触、法に住して
心を生ずべからず。
(まさ)に住する所無(ところな)くして
(し)かも其(そ)の心を生ずべし。
               
金剛経
人から笑われても、・・・・・、

やはり、”愚直”が一番よい。


         
・・・・・  苦縁讃
応無所住而生其心おうむ しょじゅう に しょうごしん

すみ所無きを心のしるべにて         
   そのしなじなにまかせぬるかな


           
至道無難禅師
淡々と、過ぎ去ったコトの跡を追わず、
”欲”を持たず、拘らず、

感謝しながら生きられたら・・・・


    
・・・・・  苦縁讃
水鳥の 行くも帰るも 跡たえて

されども道は 忘れざりけり

                          
道元
 自分自身で、納得できれば・・・、
 それが一番”幸せ”。
 『己こそ おのれの寄るべ・・・』・・か?!

    
・・・・・  苦縁讃
無常迅速(むじょう じんそく)生死大(しょうじだい)というなり、
返々
(かえすがえすも)も此(こ)の道理(どうり)
心にわすれずして、       
(ただ)今日今時(こんにち こんじ)ばかりと思うて
時光
(じこう)をうしなわず、       
学道
(がくどう)に心をいるべきなり。

                
正法眼蔵随聞記
過去を問わずして、
たった今、
「どう生きているか?!」
「こころにどんな想いを抱いているか?」
が、問題か?

    ・・・・・ 
 苦縁讃

「余生とは 今の ことなり 梅は実に」
             詠み人知らず

如来は諸心
(しょしん)は皆非心(ひしん)なり、
これを名付けて心と為すと説きたまう。
所以
(ゆえ)は何(いか)ん。
須菩提
(しゅぼだい)、過去の心も不可得(ふかとく)
現在の心も不可得、
未来の心も不可得なればなり。


            
金剛経
「諸法無我  諸行無常」
         
・・・と、釈迦。

「希(ねが)ひごと 無くて
花の 自在かな」


    
・・・・・ 詠み人知らず 

  暴流(ぼうる) → 暴走する煩悩。      ・・・・煩悩の持つ性質・・・
煩悩の持つ性質  欲・有(我)・(受け取り方)・無明(真実が解らない)
 例えば:よそ事の観念論に終始し、そのまま暴走する青年。
暴走族などの青年・・・
  感情のおもむくまま、好きな方向に走ってしまう。→ そして、少年院へ・・
  だが、彼らは100%自分の悪いことを知っている。
 しかし、”我執”が、これを認めさせない。
 育てられる間、彼らは自分の良いところを言われたことが無く、悪いところだけは言い聞かされていたのだ。
 けだし、誰にでも良いところを持っている。
 その良さを認めるてやることによって、
  彼らは心を開き、他からの忠告を聞き取ることが出来るようになる。

 
 U 慚愧(ざんき)について 
 1 本当の善人とは・・・・ いのちそのものに目覚めること
       
”いのち”はほとけ: 金剛心・清浄心 =  仏の姿  = いのちは悪に染まらない
自分の矛盾を見つめる


自己凝視
「二つの白法あり、よく衆生を救(たす)く。     
 一つには「慚
(ざん)」 二つには「愧(き)」なり。   

「慚」は自ら罪を作らず、          
他を教えて作
(な)さしめず(誘惑しないこと)
「慚」は内に自ら羞恥す。          
「愧」は発露して人に向かう。

       (私は恥ずかしいものですという姿勢で人に向かうこと)
「慚」は人に羞(は)づ。「愧」は天に羞づ。    

             
・・・・・ 「教行信証」 親鸞

「 はずべくんば明眼のひとをはづべし。 」  道元禅師: 正法眼像随聞記より
   

慚愧あるがゆえにすなわち父母(ふも)・師長を恭敬す。
         慚愧あるがゆえに父母・兄弟・姉妹あることを説く。
                 ・・・・・・・・ 涅槃経「現病品」

「無慚愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。   釈尊


 
たれのともがらも、われはわろきとおもうものひとりとしても、あるべからず。
 これ、しかしながら聖人の御罰をこうぶりたるすがたなり。      
 これによりて、一人
(いちにん)ずつも心中をひるがえさずば、ながき世泥梨(ないり)にふかくしずむべきものなり。
 これというも、なにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆえなり。


         ・・・・・・・・・   蓮如聖人御一代記聞書 第58条
    注:泥梨ないり=地獄
他人の過失は見やすいけれども、自分の過失は観え難い。
ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。      
しかし自分の過失は、悪賢いばくち打ちが不利なサイコロをごまかすように隠してしまう。  (252)
        原訳 「法句経」 ー 一日一話 ー  A・スマナサーラ 著 佼成出版 91頁より
 ・・・略・・・
 キリスト教の「聖書」にもこんな話があります。
 
律法学者達が、イエスの前にある女を連れてやって来ました。
 それは姦通の現場で捕らえられた女でした。
 彼らはイエスに「姦通した女は石で打ち殺せと、律法
(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。
 イエスはこう言いました。
 
「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、
            まず、この女に石を投げなさい。」

 すると、一人また一人と立ち去って、その場にはイエスと罪を犯した女だけになりました。
 そしてイエスは言います。
 
「わたしはあなたを罰しない。帰りなさい。もう罪を犯してはならない」と。

 「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。
 自分のことをかえりみずに、他人を責める生き方をしているのです。
 しかし、良く自分自身を観察してみれば、
  自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。

           
・・・・・・・  23ページ 「原訳 法句経」 A・スマナサーラ 佼成出版社

 V もう一度、慚愧について
    四天王寺国際仏教大学教授・弁護士 中島尚志   MOKU 2000.9 95ページ  より
             1933年東京生まれ。東京大学経済学部、同大学大学院インド哲学科修了。

           

                      ・・・・・中略・・・・・
 
昨今の世相を考えると、徳とか道が見えにくくなってきていること、衰微する方向に向かっているように思える。
 「哲学はもっとも深い常識だ」とは西田幾多郎の言葉だが(全集第十三巻)、いずれにしても、徳とか道を包含する「常識」が最も深い部分で混濁してきている、日本の歴史文化が衰弱しつつある一つの徴憑
(ちょうひょう)である。
                      ・・・・・中略・・・・・
 
ところで、日本人が、これまで大切にしてきた言葉の一つに「慚愧」がある。たとえば「慚愧に耐えない」という使い方をする。「慚」は独り自ら省みて恥じるという意味であり、「愧」は他人の眼、世間の眼を気にして恥じるという意味である。
 「慚」とは、自分のこれまでの生きざまに対する絶望から生まれてくる。エゴを意味する自我が崩壊する過程に生まれてくる心の底からの痛恨である。「慚」は、全く呼吸ができないというほどの痛恨をともなうことがあり、ときに自殺することさえあるといわれるほど激しい魂の慟哭である。
 宗教心は、自分自身の在り様が問題となるとき、初めて作動し意識の俎上に登ってくる。魂の堅琴に触れてくる。「慚」は宗教心の生まれる源泉である。「慚」はルース・ベネディクト女史のいう「罪」という表現に十分拮抗しうる魂の営みである。
 ところで道徳(モラル)は、自分の在り様から生まれるが、自分の在り様そのものを問題としない。良心は自分が人間であるという「存在性から」生まれる。しかし、それだけだ。これに対して慚は、自分が人間であるという「存在そのもの」を問う全人的な営みに根を持つ。
 要するに「慚」は、自らの地獄を体験する中から、仏教的にいえば「空」を体験する中から生まれてくるのである。
 世評とか世間の眼など、まったく入る余地のないのが「慚」である。

 

 四天王寺国際仏教大学教授・弁護士 中島尚志   MOKU 2000.9 95ページ
     1933年東京生まれ。東京大学経済学部、同大学大学院インド哲学科修了。

☆ 中島尚志(なかじま・しょうし)氏のこと・・・・
  四天王寺国際仏教大学教授・弁護士。1933年東京都生まれ。東京大学経済学部、同大学大学院インド哲学科修了。各地裁等の判事補、判事を経て、95年12月自由な発言の場を求めて、依願退官。主な著書にー「法華経 ・仏教における法の光景」「サリン」「日本語進化論」などがある
 
                 ホームページ http://mypage.odn.ne.jp/home/yaeshou20034010 
注:このホームページには、各所にこで中島尚志氏の論文を参考にさせて戴いております。私なりに要約し、または、直接引用させて頂きました。
   このことは、教授ご本人より了解をいただいております。快諾戴いた同氏に心より厚く御礼申し上げます。

 
☆ 更に、もう一つの慚愧・・・・「ガマの油売り」の口上           

 
高校時代だった。                   
講談を聞きながら受験勉強をしていて、”おやぁ〜?!”と思った。

 ”これは、言い得て「妙」なり!”と思ったものだ。      
 
 『
四六のガマ』が、我が身の醜き姿に驚き、たら〜りたらりと脂汗を流した言うのだから、面白かった。
 
とても自虐的なほどに、自己否定して悩んでいた頃だった。
 この話は、私の心を捕らえて、そして、癒された。・・・・。
 しかし、耳で聞いただけで、正確に思い出そうとしても判らなかった。

 三十年以上、探した結果見つけた。
 以下のとおりであった。

 江戸の前期の、新治郡新治村の兵助という男に、”慚”の哲学がどこまであったかは不明である。
 しかし、昔は、今以上に仏教思想が市井に染み込んでいたことは間違いないと思う。

 
醜い自分に、たら〜りたらりと脂汗を流す程のゆとりは、今の世の中には無くなっている。
 そんな文化は、すっかり消え失せている。

 ”文明”の裏側にひっそりと隠れている。

                     
・・・・・(苦縁讃)
 さぁて、お立ち会い !
 御用
(ごよう)とお急ぎでない方は聞いてらっしゃい見てらっしゃい、・・・・

 手前
(てまえ)ここに取り出したるは万金膏(まんきんこう)ガマの油、
 ガマと申しても普通のガマとは違う、
 北は筑波山の麓
(ふもと)、おんばこという露草(つゆくさ)
 喰
(く)って育った四六(しろく)のガマ、
 四六五六
(しろく・ごろく)はどこで判る、
 前足の指が四本 後足の指は六本、合わせて四六のガマ、
 筑波の山中深く分け入って捕まえましたるこのガマを、
 四面鏡張りの箱に入れる、
 するとガマは・・・
 
己が醜き姿に驚き、たら〜りたらりと脂汗(あぶらあせ)を流す
 この脂汗をば柳の若葉で三七二十一日の間、
 煮詰めて作りましたのが、このガマの油、・・・
  


         注:<江戸の前期、新治郡新治村の兵助という男が、口上を交えて江戸で売り出したのが起こりという。>


  
とき日の経つのは、速いもの。
 
 振り返れば、はかなくも短いもの・・・・。

                        **************
   
「人ごとに一つの癖はあるものを
             我には許せ敷島
(しきしま)の道」
                            

                      ・・・→(唐くにへの道)    僧  慈円
                        **************

 
 皆様に随分とお世話になり、振り返れば何の為にもなれなかったような・・・侘びしさも・・・?!

                                              ・・・・・  苦縁讃



2 佐藤一斎の言う”慚”とは ・・・・
                                                               
 @   佐藤一斎 「言志録」  4 天道は漸をもって運(め)ぐる。

 「天道は漸を以て運ぐり、人事は漸を以て変ず。必至の勢いは、
   之を卻
(しりぞ)けて遠ざからしむる能わず、
     又、之を促して速やかならしむる能わず。」


                                 
***************

 
訳:天然自然の道はゆるやかに運り動き、人間界の現象もゆるやかに変化するものである。
 しかし、ここには成るべくして成る必至の勢いがあり、この勢いはさけようとして遠く離すこともできず、またこれを促して、はやくしようとしてもできないものである。

                     ・・・ 川上正光 訳 (1912〜1996東京工業大学学長)

A  同     169  己に恥じざれば人は服せん

 
我が言語は、吾が耳自ら聴く可し。我が挙動は、吾が目自ら視る可し。

 視聴既に心に愧じざらば、則ち人も亦必ず服せん


  我言語。 吾耳可自聴。我挙動。吾目可自視。視聴既不愧於心。則人亦必服。


                    ***************

 
訳:自分の言う言葉は自分の耳で聴くがよい。自分の立ち居振る舞いは自分の眼で視るがよい。自分でみ、自分で聴いて心に恥じなければ人もまた心服するであろう。


3 ”慚”の姿について ・・・・   確固とした自己が無くてはならぬ。・・・・・ 
--------- 墨 子 ---------

「君子は水に鏡せずして、人に鏡す。水に鏡すれば面の容を見る。
人に鏡すれば則ち吉と凶とを知る」 
         
--------- 最明寺 時頼 ---------

 わが心 鏡にうつるものならば  さぞや姿の 醜かるらん


                                
4 ”自己否定”と”慚”と ・・・・   確固とした自己が無くてはならぬ。・・・・・ 

--------- 孟子  --------- 

「人必ず自ら侮
(あなど)りてしかる後に人これを侮り、

家必ず自ら毀
(やぶ)りてしかる後に人これを毀り、 

国必ず自ら伐ちてしかる後に人これを伐つ。」
  

宗教とか哲学というのは・・・。

千年二千年のずっと永い昔から、人間とはわからない存在だと、悪魔にもなれば神にもなる存在だと言うことを最初から言い続けている。
               略
 本当のことをいえば、人間というのは究極的にわからない存在だというように考えれば、そこから人間に対する不安感とか、恐怖感とかいうのが出てきて、そのことを通して逆に人間に対して非常に謙虚な気持ちになるはずなんです。
 私はまずそういう地点から再出発しなければいけないのだと思う。
 そういう謙虚な反省というものが、近代的なヒューマニズムの考え方によって覆い尽くされてしまった。
 これは
戦後教育の最大の問題点でしょうね
                           山折哲雄 対談    MOKU  1998,12    25ページより

 
 「ご案内」