弘法大師・空海       

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人間的に見る:空海について    


編集・管理人: 本 田 哲 康
空 海 の 生 涯 と そ の 頃

主に、「高野山への道」 :司馬遼太郎 NHK放送に基づく
  高野山への道・・・ 高野山に至るに、ふもとの村には・・・・ 
(1)



 真田庵(善名称院)がある。これは、江戸初期にできたらしい。
 真田昌幸
(1547〜 1611)・幸村親子の屋敷跡である。
  昌幸は、関ヶ原の戦いで、石田三成側の西軍に着くが、東軍の家康によって九度山(くどさん)での謹慎を命ぜられた。長い土塀に囲まれ高野山の末寺となっているが、戦国の地・侍屋敷だ。
 幸村は、大阪に陣前に病死している。昌幸は豊臣秀頼に招かれて九度山をでた。
 彼は、勝ち目のない大阪城を守った。
(2)







 高野山への入り口九度山(くどさん)に、女人高野(にょにんこうや)と言われる慈尊院がある。
 ここは、空海のお母さんのお寺である。路上から、苔むした石垣がみえる。
 
 讃岐からやってきたお母さんは、女人禁制の高野山に入れなかった。息子にまみえることができずに、ここに留まったのだという。
 高野山への道が、ここから始まっている。
 (旧道)町石
(ちょういし)・・「後○町」等と刻印去れた「一条一尺の石」 ・・ 五輪の形の道しるべが在り、凡字が書かれ様々な菩薩を象徴している。
 今では、道路整備が施されて、高野山まで車で40分である。

 聖
(ひじり)とは、室町時代では、宗教を売り物にする乞食(こつじき)同然のものであった。・・・が、「高野聖」は、・・各地を渡り祈祷や説法をした僧侶のことである。
 
正式な僧の資格を持たないので、歴史の上では比較的大衆から軽んじられた。
さて、
(3)











 高野山は、 標高800m 123の寺院が集まっている。
 真言密教は、およそ1,200年前に空海が、ここを修行の道場として開いた。
 真言密教は、難解な思想を持つ。
 その教えは、 
 
「即身成仏・・・密教の説く方法で修行すれば、人間は生きたまま宇宙の根本原理と一体化し、やがて悟りを得ることができる」というものだ。
 二人で、問答を繰り返す「二日回し」という法会
(ほうえ)がある。これは1,000年以上に渡って、ここで続けられている。
 年間百万人以上の、全国の人が訪れている。
 こうした大師信仰は、全国を回って旅をする高野聖
(ひじり)によって広められた。
 高野聖によって、空海の難しい教理が民間に根ずくことになったのだ。
 空海には、「阿弥陀仏に頼みまいらせて、南無阿弥陀仏をひたすらに唱える」という思想は全くない。
 高野聖が、念仏の他力本願と即身成仏を、・・、論理的には矛盾したものを、堂々と一緒にして諸国を歩いた結果そうなった。
(4)



 空海が眠っているのは、高野山の奥の院だ。
 
空海は、諸国を行脚して廻った。(戦国時代以降分骨の習慣は、全国に広まった。)

 今、奥の院の墓石は20万以上の墓地となっている。これも高野聖の遺跡ともいえる。
 鎌倉時代以降には、大名たちの分骨を預かるようになった。
(5)







 西南院には、空海の愛弟子によって開かれた「別所(円通律寺・・今でも女人禁制)」がある。
 
ここは本山とは別の場所の意である。
 高野聖が遠慮してここに住んだのであった。
(地名:新別所にある。)
 今は、若い僧侶を教育する寺が幽谷の中に一つあるだけで、まるで竜宮城の門のようなものとなっている。
 脇に、沙羅双樹
(さらそうじゅ)の樹が植えてある。(日本では夏椿で代用)鉄の鎖ぶら下がっている。
 鐘が鳴らされる。しかし、ここは俗会からの客を拒むと言うのが原則であるから「出迎え」はない。

5:30 起床     9:00 就寝
        100日間の修行が行われている。 
 
修行僧たちは、真言(しんごん)を唱える。それぞれの行動に真言があると言うことだ。
 呪文
(じゅもん)と言うより宇宙との交信用の言葉か? 真言によって、修行僧に「仏」が入ってくる。
 ・・ インドから渡った作法が、今も続けられている。

 ☆ 空海の教えを広めたのは、高野聖(こうやひじり)である。高野聖を率いた僧が居た。                       
(6)



 それは、
 俊乗坊 重源
(ちょうげん) 1121〜1206 であった。彼の貢献は大きかった。

 
彼の高野聖を率いる統率力は並ではなかったという。
 ふつうの聖たちは、妻帯もおこなっていたが、ここの聖たちは外界と絶って、ひたすら修行していた。
 女色
(にょしょく)を断ち勧進・遊行(ゆぎょう)をしない。

☆ 空海 弘法大師のこと
・・・御遺告(ごゆいごう)によると;                         
 「我が父は、佐伯(さえき)氏にして讃岐のくに多度郡の人なり。昔敵蒙を征し班とを被れり。」・・東国の蒙人の征倒に出かけ、その武功により讃岐に土地をもらった家系であるという。
 しかし、讃岐の佐伯氏のルーツは、は蒙人
(もうじん)そのものであったと思われる。
 日本書紀によれば、大和朝廷に破れ、捕虜となって東北からつれてこられた。
 蒙人蝦夷
(えぞ)とは、アイヌと考えても好い。
 漠然と農耕民にたいし縄文的採集生活をし、定着することを欲しない種族である。言語も違っていただろう。
 異語を用いたと思われる。 人が異語を用いる場合、騒
(さえ)ぐように聞こえる。
 佐伯とは、”さへぎ”のことである。
 空海は、佐伯だけにある特殊な方言を耳に馴染んで育ったであろう。彼は、語学に異常なほど長けた。

 
                                    ・・・・・・<司馬遼太郎>
       
                 

2 弘法大師・空海の生涯
                      注:以下も司馬遼太郎氏の解説による。

 空海。讃岐は多度郡屏風ヶ浦で生まれたとされている。
 現在の香川県多度郡多度津町から善通寺にかけた辺りだ。

 父は、この一帯を支配する郡司、佐伯直田公。

 佐伯氏は大和朝廷に服属した蝦夷の集団、佐伯部の管理職をし、弘法大師の祖先もその功により讃岐の国造として任じられたが、大化改新以後は国造家が廃止されたため、弘法大師が生まれた頃は、あまり実力のない地方の名門にすぎなかったようだ。


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西暦           LINK このころの歴史へ   歴史その1
774 宝亀4  空海(〜835真言宗開祖)生まれる。生地は、現在の香川県多度郡多度津町から善通寺にかけた辺り。父は、この一帯を支配する郡司「佐伯直田公」。
 香川県詫間町 空海の古里の近く・・・今も信仰者が多い。
 この前年773年:月山、(山形県のほぼ中央に位置する成層火山死火山)標高1980m。
 湯殿山、羽黒山とともに出羽三山と呼ばれる。773年、封戸二戸が授けられる。

 『延喜式』には、月山神社を名人
(みょうじん)大社に列している。
 同時期の出羽神社は名神小社である。
 月山の本地仏は、阿弥陀如来で、垂迹すいじゃくは月読命
(つきよみのみこと)、羽黒山は観世音菩薩=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、湯殿山は、大日如来=大山祗命(おおやまつみのみこと)である。
777 宝亀8  空海4歳の時、遣唐使船が讃岐屏風ヶ浦の沖をすぎている。彼は、浜に立ってみたであろう。文明は、唐にしかなかった。当時、世界性を持つと言うことは、唐の学問を学ぶことであった。 
781  空海8歳。最澄得度15歳。
788 延暦7  空海、讃岐をでて奈良にはいる。大学に入学 高級官僚の養成コース・・・ 儒教中心の処世術ばかりを教えたので空海は失望する。
 この頃、遷都のさなか。桓武天皇、中国的な専制君主を目指す。(平城京)都を変えて奈良仏教から切り離そうとした。天台宗総本山、最澄は山上に自ら刻した薬師如来像を安置した小堂「一乗止観院」を営み、比叡山延暦山寺と名付けた。
 3/霧島山1700m(宮崎県と鹿児島県の県境)噴火。火山灰が2尺積もる。
791  空海京都の大学に入学。阿波の大滝岳・土佐の室戸崎で勤行。この年、尾張などの民が漢神をまつり牛を殺すと伝えられる。


 

 空海は大学寮に入った。
 叔父の阿刀大足の勧めもあり、儒教を主とする明経科を学ぶこととなった。
 大学では他に、明法、文章、算道が有り、明経は官吏養成コースで最もスタンダードなコースであった。
 空海は、精魂込めて勉学に励んだ。
 だが、叔父の阿刀大足のもとで、孝経・論語・左伝・三礼・尚書・周易・・などを厳しく学んできた彼には、大学の学問は既に新鮮さを失っていたという。
 弘法大師の苦悩が始まる。
 大学では、来る日も来る日も、暗誦と素読の繰り返しをし、一字一句を間違いなく暗誦した者が式部省の官吏登用試験に合格するのだ。
 身分の低い地方官吏の子弟の空海には、合格しても行くところは既に定められていた。
 弘法大師は苦悶する事になる。
 

 

796  23歳。夢のお告げに従って大和(奈良)久米寺に赴いた。ここの東塔下において「大日経」を感得。大日経の中に書かれている特殊な文字・梵字を読める者はいなかった。
 空海が仏教の本場中国を目差したのは、そのことが主な要因であったともいわれる。
797  空海、空海24才。聾瞽指記(ろうこしいき)を著す。日本で初めての戯曲的な記述方法。
 
(中国から帰朝後、「三教指帰(さんごうしいき)」著すが、これは「聾瞽指記(ろうこしいき)」とほぼ同じであるが、序文と巻末の十韻の詩が全く異なっている他、求聞持法が新たに加えられている。・・・高野山大学教授 乾仁志「空海の生涯とその教え」大法輪 より) 
 この頃、猿投窯で灰釉陶器生産始まる。

 (後に、空海と一緒に遣唐使船に乗って、焼き物技術を持ち帰り、中国の技術者を伴って、この世界の隆盛に貢献する者が居た。)
藤原継縄等「続日本紀」。
 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命。
 空海の哲学的小説「三教指帰(さんごうしいき)の著す空海の”十住心”:すなわち人生の十段階   中村元著 「日本思想史」東方出版による
                                   注: 尚、各段階の解説の下段に、「日本仏教を捉え直す」 
放送大学教育振興会による説明を加えた。(日)
第一段階 羊のような凡夫の段階:
異生羝羊心
      (いしょうていようしん)
 これに属する人たちは単に感覚的な欲望を満足することだけを願っている。
 彼らは善と悪とを見分けることが出来ない。
 善悪の道理に暗く、煩悩のままに生きる。凡夫の段階。
第二段階 斎戒を保つ愚かな子供の段階:

愚童持斎心
     (ぐどうじさいしん
 これに属する人たちは用心深く道徳律を守り、社会が無秩序に陥ることを防ごうとする。
 他の宗教体系のなかでは、儒教が五つの関係(五常)を守ることによって道徳の重要性を強調するものと言えよう。
 しかし、それは人々を世俗生活から解放する方途を示すことはない。
 (日)本来持つ仏性が少し顕在化され倫理道徳に目覚める、倫理の段階。
第三段階 畏れを知らない子供の段階:

嬰童無畏心
    
ようどうむいしん
 この思想は道教において説かれている。また真言宗でも生長や呪術のような道教の教えを受け入れてはいるが、それらは低い価値しかないと考えられていたのである。
 歴史が示すところによると、皮肉にも真言の信仰が一般人に受容されたのは主にこうした異教的な教えによってであり、この異教的な教えは民衆にも古代朝廷の貴族たちにも訴えるものを持っていたのである。
 (日)人間界の苦をのがれ天上界に憧れ安心立命を求める、仏教以外の諸宗教の段階。
第四段階 唯蘊無我心
    
ゆいうんむがしん)
 自我がなく、自我と呼ばれるものは五蘊(スカンダ)の集合体にすぎないと理解している人たちの段階。
 (日)無我を説くがその構成要素たる蘊の実在を説く、声聞乗(小乗)の世界。
第五段階 抜業因種心
       ばつごういんしゅしん)
 一切の情欲や苦悩がやむまで悪業を根絶させようと努める人たちの段階。
 (日)十二縁起観により、自己の業や煩悩を滅する、縁覚乗(小乗)の段階。
第六段階 仏教観念論(法相宗)の説く大乗の領域:
他縁大乗心
     (たえんだいじょうしん)
 仏教観念論(法相宗)の説く大乗の領域へと高まる。
 この段階に達した人は、一切の現象を蔵識や記憶の顕現以外の何ものでもないと見、一切衆生の救済に無限の慈悲を感じるのである。
 これ以降は大乗仏教で利他を重んじる。但し本段階では五性格別(悟りの可能性の有無が生まれつき決定)で、法相宗(権大乗−大乗に準ずる)の段階。
第7段階 空の哲学者の段階:
覚心不生心
     (かくしんふしょうしん)
 空の哲学者の段階である。彼らによると、生も滅もなく、一も多もない。
 この無という無差別性の思想は、中国・日本の三論宗にみられる明白な特徴である。
 (日)すべてを空じるが否定面に終始する。三論宗(権大乗)の段階。
第八段階 行為なき一なる道を説く天台学派の段階:
一道無為心
     (いちどうむいしん
 究極の実在はわれわれの現象世界の経験と同一であり、世俗の世界とは別に真理があるのではないと考える。
 (日)一切諸法は事理相即すると主張する、天台宗の段階。
第九段階 華厳学派の段階:
極無自性心
     (ごくむじしょうしん
 個々別々の実態があるのではなく、真理は宇宙のやむことのない活動のなかに実現されていると説く。
 (日)万法の事事無礙円融を説く、顯教では最高の段階で、華厳宗の段階。
第十段階 最高の段階:真言宗自身の立場である。
秘密荘厳心
        ひみつしょうごんしん
 今や美しく荘厳された領域である秘密の真理への門が、修行を積んだ者に対して開かれる。 真言の神秘的な儀礼を遂行することにより、修行者は人間も宇宙も大日如来そのものであると体得する。
 (日)自己の心を知り尽くし、身に仏の印契を結び、口に本尊の真言を唱え、心に仏を観想することによって、仏と自己が一体となる、真言宗の段階。
注: 臨済宗の「無我」を参考にされたし LINK → 十牛図
 
 このころ最澄は、京都・高雄山で仏教界のリーダーになろうとしていた。
 桓武天皇は、最澄の持ち帰った多くの仏典の中にあった、密教の断片を見つけて、これを最高の仏教とした。奈良仏教を押さえ込もうとしたのだった。
 
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立身出世が目的で大学で学ぶ弘法大師(空海)であるが ・・ 悶々(もんもん)とした毎日が続く。
                              ・・・・・・・ 【三経指帰】より
 
 「力を尽くして田畑を耕やそうとすれば力がない。
 古代中国の寧という男の言う『牛の角を叩いて仕官を求めよう』にも、その能さえない。
 ・・かと言っていたずらに官職にあれば、空しく禄を食んでいるというそしりはまぬかれる事はできない。
 孔子のように忙しく走り回る事は、才有る人にのみ可能で有ろう。 この愚かな私も何のすべきが有ろう。
 進もうとすれば才はなく、退こうすれば親族一同を悲しませる事になる。」

     ここに、空海進退極まって、出るのは唯、溜息ばかりだった。
・・・と解説された。 

 

798  空海24歳の時に「聾瞽指記(ろうこしいき)を著した。空海が、日本最初の戯曲形式で作った(空海が、建立した金剛峰寺(こんごうぶじ)に保存されている。) 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)、清水寺を建立(本尊十一面観音、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天安置。) 



 聾瞽指記(ろうこしいき)・・ここに、空海が大学を止め、仏教を目指したいきさつが書かれている。
 自分を、乞食僧においた、戯曲的な記述方法だ。ここで、空海は”一番優れているのは仏教だ”という。
 儒学は無力・・・と、痛烈に批判する。・・

「儒者よ、貴方は年長であるからと言って長用の序をやかましくいい、そのしつけを核にして浅薄な思想を作り上げているがそれは錯覚である。時間には初めというものが無く、貴方も私も生まれ変わり死に変わり常無く転変してきたものである。生きていることの秘密を知るに付いては、儒学は無力である。」      

 空海は、あまりにも自己の”いのち”そのものについての関心が強烈すぎた。
 < 俗世での栄達の道を自ら蹴る・・・はかなさもなく、湿気などもない。絢爛たる輝きがある。>
、と
              司馬遼太郎氏は述べる。

 退学後7年間、空海は山野を歩き山岳修験者(密教を受け入れていた)と交流を持ち、密教の断片を学んだ。
 山々を巡りながら 
虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじとうほう)陀羅尼(だらに)を唱えた。
 
密教(インドで生まれる)は、大日如来(宇宙の超越者)を信仰するものである。
 密教は、欲望を否定しない。
 これは、自然の状態そのものを清らかなものとし、人間の欲望を否定しない新しい世界観に満ちていた。
注:山岳崇拝  「日本精神通義 ー日本の「こころ」を活学する 」   安岡正篤  より抜粋
 仏教の興隆と神道とのとの関係を考えます時、日本に独特の修験道と称するものを看過することができません。
 いったい仏教がインドに興りました由来をはるかに訪ねますと、パンジャープ地方にきたアリアン民族がその天然の雄大荘厳なのに非常な感動を発し、これを礼算したしたことを注意せねばなりませんが、この山岳を敬仰
(けいぎょう)し、ここに卑小な人間を解脱する道を求める傾向は、漢民族にも日本民族にも共通の著しい減少でありまして、ことに中国の道教は現実主義、人道主義の儒教に反して、神仙思想、山岳崇拝の念がすこぶる旺盛であります。
 日本も山岳の高俊幽深
(こうしゅんゆうしん=高く険しく、静かで奥深いこと)は国土の一大特徴でありまして、神の崇拝がこの山岳と結ぶことは当然と申さねばなりません。儒教とともに道教も輸入され、仏教の伝来するにつれて、これに影響された山岳行者がだんだん出てまいりました。
 文武天皇の頃
<在位697年〜707年。24才で若死にした第42代天皇>、渓山の嶮を跋渉して苦修練行し、孔雀明王<孔雀経などに説かれる密教の明王>の秘呪を持して、すこぶる霊験を現したという役小角(えんのおづぬ)が現れ、次いで越前に泰澄、播磨に法道というような異人が出まして、この修験道とも山間仏教ともいわれる修持応験の道を盛んにいたしました。
 この派の人々は後の文章から見ますと、星宿
(せいしゅく)に祈ったり、太山府君(たいぜんふくん)<中国の泰山の神。人の寿命・福録を司る神として道家でまつる。>を祭ったり、道教そのままのことをしているかと思うと、薬師・室生・大日・弥陀・釈迦の五仏を木火土金水の五行に配して拝んだり、鹿島大明神、戸隠大明神、諏訪大明神、香取大明神、住吉大明神を五大力尊神と崇めて祀っております。これなどは明らかに神道と深い関係を持つもので、いかにも素朴な日本人の姿に接する感がいたします。
 これらの人々の間には神道、仏教など何らの矛盾も感ぜずに、おおよそ有り難く思われるものは何でも自由に摂受することのできる純厖
(じゅんぼう=純粋でおおらかなこと)とでも言うべき心を持っていたのでありますが、理性的功利的にだんだん開けてくるにしたがって、それでは済まなくなってきました。
 奈良時代になりますと、前述のように都市仏教が朝廷の外護の下に非常に隆盛をいたしてまいりまして、それにつれて、神道との関係がすこぶる苦にならざるを得ません。
 そこに必然生じ始めましたのは、在来の神々も仏教に随喜し、これを守護するという考えでありました。
 それはやがてかの大仏建立に際し、宇佐八幡が天神地祇を率いて大仏の鋳造を援助せられるという託宣になり、神はまったく人間化せられて、「我は宿業によって神となること久し。今仏道に帰依して副業を修せん(気比神宮神託)」とか、「我は神身を受けて苦悩甚だし。深く仏法に帰依して神道を免れん(若狭比古神社神託)」などといわせるような思想にまでなってゆきました。
 そのために神域内に塔を建てたり、神前で読経するようなことが流行し、やや進んで神に菩薩や権現の名を付けたり、ついに諸国の名神霊社に神宮寺を置き、大寺の境内には鎮守の社を設けることが通例になりました。(中略)
 弘法大師が、高野山を開くに当たって丹生
(にう)明神、狩場明神の守護を説き、伝教大師が日吉(ひえ)神を祀っておりますのは、少なくともそこに神仏を習合しようとする真面目な意図を認めなければなりません。 
後世になって伝教大師を山王一実神道の、
弘法大師を両部習合神道の開祖のようにいいますのも無理のない沙汰なのであります。
 そのうちに、仏・菩薩が衆生摂化
(しょうげ)の方便に日本に現れたものが神祇であるといういわゆる垂迹思想が流行し、平安朝の末葉には、伊勢の皇太神(こうたいじん)は救世観音の変身であるとか、八幡大菩薩は西方無量寿如来を本地とするというふうに、一々これらを神祇に適用したものです。(略)。   

 密教は、その中心に宇宙の真理を表す大日如来をおく。
 大日如来は無限なる宇宙のすべてであり、宇宙に存在するすべてのものに内在すると説く。

 太陽にも、昆虫にもそして舞い上がる塵の一つ一つにも、大日如来は内在するという。
 しかも、同時に宇宙にあまねく充ち満ちている超越者であるとする。
 創始者たちは、宇宙は、限りなく人間に暖かいものであると考えた。
 これの断片は日本にも伝わっていたのだった。
 その後、空海は室戸岬 洞窟にこもった。・・秘密の言葉を百万便となえれば、仏教教典すべてを暗唱できるという記憶術を学んだ。これは、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)である。
 
虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)は、山岳に峯入りして虚空蔵菩薩の真言を百万遍読誦し、その苦行を繰り返していれば、やがては八万四千という世に満ち満ちた経文全てをそらんじられるられるようになるというものだ。
 これは、印度直伝の秘法である。
 修験者になった空海は、名を「無空」、後に剃髪して「教海」、そして更に「如宝」と改め、私度僧になり土佐室戸岬で「虚空蔵求聞持法」を修行した時、「空海」と称したと言われる。

 御遺告(ごゆいごう)には、ここでの奇妙な体験が書かれている。
 この体験の後、彼の精神は抽象的な世界に住むようになるのであった。
 密教は、認識や視覚を飛び越えて、例えば「風」そのものに成り果ててしまうことを目的としている。
 空海は、クジャク(この禽獣は悪食・毒虫をも喰う)を大日如来の化身として、その”象徴”に取り入れた。

 一方、このころ最澄は、比叡山で寺を構える高名な僧侶となっていた。
 桓武により仏教界のリーダーと認められていた。
 奈良仏教ではない新たな仏教を受け入れようとしていた空海は、密教の根本教典である「大日教」 に出会った。
 読めば彼には理解できた。
 この「大日教」は、仏と交感して、そこから利益を引き出す方法が書かれている。
 その部分は秘密であるがために印を結ぶ所作が必要であった。
 従って、これを伝えるには手を取って伝授されることが必要であった。
 それからである。空海は
渡唐を決意することになる。

 

801  この年、岩手山(標高2041m):岩手神社創始された。坂上田村麻呂が蝦夷の征伐に成功した時、山中に潜伏する賊徒を誅戮して民害を除き、この時村民を安堵して、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)、日本武尊の三神を勧請して奥州の地の鎮守とした。
 後に、宮沢賢治(賢治は、1910年初めてこの山に登った。)は、イートハーブ火山を書いたが、この山がモデルである。
804 延暦23  空海、留学生(るがくしょう)滞在期間20年の規定にて選考される。この年30才。
 大阪港から船出。船の名「鑑真」。・最澄は、短期還学生(たんきげんがくしょう)=2年間。
 最澄の権威は、今の国立大学の教授以上であった。二人は、この期の遣唐船に乗る。(それぞれ、別の船であった) <船の大きさ:推定25m×巾およそ8m>7月6日外海(五島列島海域)にでる。12月長安に到着。 

 

空海漂着の場面:弘法大師行状絵巻」に記述あり。
 空海漂着の場面を見てみよう。
 中国福建省赤岩村。ここに空海たち一行はたどり着いた。ここは遠浅の浜だった。このとき空海30才であった。
 
一行は、中国当局から海賊の疑いをかけられた。
 遣唐大師が手紙を書くが、受け入れられなかった。そこで、語学の達者な空海が書くこととなった。
 当局はこれを読み、即座に上陸を許したという。

 中国の当地での「空海研究会」は、”表現力豊かな文章である。”と、そして”類い希な名文”と評価している。
 今、この村に「空海道路」が工事・建設中である(2003年)。今、ここを訪れる日本人は多い。
                          
 今から8年前(H6)、中国の彼の地に「空海大師記念堂」が、建立された。そこに空海像が安置された。
 さて、
 この地方での言い伝えによると、ここで空海40〜50日滞在したと言う。
 そして、一行はその後に長安を目指すことになる。

    
(注:この地の、林 成業 氏の祖先が、空海の世話をし道案内をしたと家伝されている。)
    
 長安(現・西安市)は当時、世界で一二を争う国際都市として繁栄していた。多種多様の民族が集まる場所であった。
 唐の時代に、ここで大雁塔(慈恩寺)を背にして立つ玄奘三蔵像が居たはずである。当時は、およそ100万人の人口であったと言う。

 空海は、ここにいて階級・民族などを越えて、人間として普遍的に置かれた世界を眺めた。
 郊外に
(1994年に再建)「青龍寺」がある。 ここは、空海が恵果から密教の秘伝を授かった処だ。
            (だが、1000年近く歴史に埋もれ途絶えていた。)

 恵果は、真言密教をただ一人受け継ぐ第7代の僧である。
 恵果は、空海に会う。「久しくおまえを待っていた。」と、空海に言う。修行が始まったのである。

 4:30起床。金剛合掌(密教の方法)指を浅く組み合わせる。

 恵果は、密教の秘法をことごとく空海に伝授した


 

805 延暦24  2/長安宣陽坊より西明寺に移る。般若三蔵・牟尼室利三蔵に師事し梵語や婆羅門等の宗教について修学。  6/空海、中国の僧恵果(746〜805)に師事し胎蔵法の潅頂を、7/金剛界の五部潅頂を受ける。9/恵果没。  
  最澄
(767〜822天台宗開祖)唐より帰る。12/藤原お嗣の意見により平安京造営を中止。 

 

 そして結縁潅頂を受ける。・・・頭の上に水を注ぐ。目隠しをして、曼陀羅(まんだら)の絵の前に導かれ、花を投げる。・・落ちた所の菩薩がその人の生涯のネンチ仏である。
 空海の時、投げられた花は大日如来のところに落ちた。

 恵果は、遍照金剛(大日如来密号)という名を空海に与えた。翌日、結縁潅頂を(けちえんかんじょう)授け、その後第8代の後継者となった。

 

806 大同元  1/弟子の中から選ばれて恵果和尚の碑文を創る『性霊集(しょうりょうしゅう)』。空海(774〜835真言宗開祖)唐より帰る。博多に帰着。曼陀羅図も持参。
 この年、王臣家等の山野独占を禁止。

 


 
空海一行は、日本から来た使者に、帰国を頼んだ。
 この後30年間遣唐使は途絶えた。
 おそらく、空海は、このときに帰らなかったら生涯日本に帰らなかったであろう。


 空海は、帰国に望んで中国の仲の良い友達に書いた別れの詩である。
   同法同門喜遇深    どうほうどうもんきぐうふかし
    随空白霧忽帰岑    
くうにしたがうはくむたちまちにみねにかえる
    一生一別難再見    
いっしょういちべつふたたびまみえがたし
    悲夢恩中数数尋
   ・・・・                           


 国禁を犯しての帰国(本来留学僧は、20年間の期間と定められた期間があった)であった。
 その後、空海は自分の功績について沈黙した。
 1年近くの空白が在った。
 この間、太宰府の観世音寺に、空海がしばらく居たことは解っている。
 空海は、「御請来目録」をまとめた。
 「御請来目録」は、持ち帰った膨大な教典やその注釈書461巻、金剛密教法具などの目録である。
 この冒頭に、空海は留学期間を繰り上げて帰ったことを「死に値するものだ」と詫びている。
 そしてその上で、「御請来目録」は、持ち帰ったものは日本文化にとって史上空前の財宝であると、記述している。
 これを京に帰る人々に託し、彼は即位した嵯峨天皇に提出した。・・・。

 空海の望みに応じ、嵯峨天皇より空海は書を奉る。これ以後に「国家鎮護の法要」を申し出て、仏教界の表舞台に出ることになる。

 

809 大同4 空海高野山寺に住す。4/平城天皇譲位。賀美能親王即位。12/平城上皇。平城旧京へ移る。
812 弘仁3  9/最澄、空海と会って密教「理趣釈経」の書巻を貸せと懇願して断られる。
 5/国司の公廨田
(くがいでん)以外の私営田禁止。
 6/大輪田の泊(とまり)を築く。
 

 
 その後、空海宛に最澄より手紙が来る。 「教典を貸してほしい」と、懇願したものであった。
 最澄は、京都高雄山「神護寺」の、空海の元に赴き、謙虚にも自ら二回にわたって潅頂を受けている。
 この潅頂とは、初歩の入門の儀式であり、若い幼い子どもも混じっていたという。

 空海は、持ち帰った教典を最澄に5年に渡って貸し渡す。
 ・・・が、しかし、「理趣経」は最澄に貸さなかった。

 理趣経は冒頭で、あられもないほどの率直さでその本質を出している。
妙 的 清 浄 句          「みょうてきしょうじょうのく
是 菩 薩 位             これ ぼさつのくらいなり」

         
と。
 これは、男女交合の恍惚の境地は本質として清浄であり、菩薩の位であるという意味だ。
 生命の当然の属性である煩悩も 宇宙の実在としてその本姓をすべて菩薩と見ている。 

 さらに、理趣経
 ”人間を含めてすべての自然は本姓において清浄であると人間も宇宙の原理に合一できれば、たちどころに仏たりうる。”  と説く。
                   ********
 
結果、最澄は、自らの大系を完成させ得なかった。
 しかし、法然→親鸞→日蓮→道元 へと、我が国の歴史に残る多くの天才たちを輩出した。

 

 815 弘仁6   この頃、顕密の対弁思想をより体系的に整理して「弁顕密二教論」二巻を著す。 
816 弘仁7  この年、空海、高野山の地を賜う。修行の地としてこれを開く。この頃、大日如来から恵果和尚に至る七祖の伝記を詳細に記した「密曼荼羅教付法伝」二巻を著す。
 この年、検非違使の初見。藤原北家台頭と他氏排斥。
818  45歳。この頃「般若心経秘鍵」一巻を撰述する。
819  46歳。高野山に金剛峯寺金堂を建立する。「高野春秋」。この頃「秘密曼荼羅教付法伝」二巻を撰述する。「即身成仏義」・「声字実相義」・「吽字義」を撰述する。
820  5/先の「文鏡秘府論」の略本である「文筆眼心抄」一巻を撰する。10/20嵯峨天皇より伝澄大法大師位を賜い、内供奉十禅師に任命される。
821 弘仁12  「密曼荼羅教付法伝」に、善無畏(ぜんむい)・一行(いちぎょう)の二師を加えて「真言付法伝」を著し、密教の正統性を説く。また、「即身成仏義」「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」「吽字義釈(うんじぎしゃく)」の三部書及び「三昧耶戒序(さんまやかいじょ)」等を撰述して、密教思想の理論的な確立に努める。。
822
 2/11勅により東大寺に潅頂道場を建立し、鎮護国家のため、息災増益法を勤修。この年平城太上天皇に三眛耶戒を授ける。この時に「平城天皇潅頂文」を撰書し、同時期に「三眛耶戒序」も撰述か?の説。 最澄入滅
823 弘仁14  空海、1/19京都の東寺給与さる(雨乞い祈祷)空海の伝えた、密教の根本道場となる(国家鎮護の寺として創建)。10/10「真言宗所学経律論目録」を奏進。 この年、比叡山延暦山寺、嵯峨天皇より延暦寺と寺名を勅使され、比叡山寺を「延暦寺」とする。嵯峨上皇に冷泉院において金剛界潅頂を授ける。

 

東寺(京都):国家鎮護の寺として創建される。ここには21の仏たちが並ぶ.中心には大日如来。
 大日如来という宇宙の真理の前では、すべての存在は差別無く平等とされる。
 綜芸種智院(京都)は、庶民のための学校として、貧富の差無く教えた
 篆隷万象名義 は、空海による日本最古の漢字辞典である。
 空海は、「これまで国家が主導した日本文化の形を変えようとした。」
と、司馬遼太郎氏は見る。



824 弘仁15 空海51歳、室生寺再興3/請雨法の法験により少僧都に任命される。9/29高雄山寺を神護寺と改称。
826  1/11高野山慈尊院ではじめて大仁王会を修する(高野春秋)。
827  3/1「大日経」住心品所説の十種の譬喩を「十喩詩」として詠し、下野の広智禅師に送る(性霊集)。5/祈雨法の験により大僧都を任ぜられる。
828 天長5  空海、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立。「綜芸種智院式共序」を撰書する(性霊集)。この年、天台宗延福寺(松島寺=瑞巌寺)、慈覚大師円仁(えんにん)が開創。後に、北条時頼によって廃絶されるが、1259年法身性西(ほっしんしょうさい)を開山に迎え、臨済宗・円福寺として創建される。室町時代には五山(ござん)に次ぐ十刹(じゅっさつ)の地位をうけた。 
829 天長6  56歳。7/18三島真人助成の亡息女の追善のため、「法華経」を講説する。この時期、「法華経開題を」撰述する。
830  空海、「秘密曼荼羅十住心論」十巻、「秘蔵宝鑰ひぞうほうやく三巻を撰述する。
831  58歳。病のため、大僧都を辞退せんことを願うが受理されず。延暦寺の僧・円澄ら空海に書状を送って真言法を受学せんことを請う。
832  空海8/22、高野山において、萬燈萬華の二会を勤修(性霊集)。11/12、高野山にはいる。穀味を断って修禅する。
834  5/28諸弟子に対して遺誡を行う。8/23高野山に毘盧しゃ那法界体性塔二基、及び金剛界・胎蔵界曼荼羅を造立するための勧進の文を著す。
835 承和3  1/7真言院ではじめて御七日御修法を修する。2/30金剛峯寺を定額寺とし、3/15諸弟子に対して遺誡を行う。
 空海3/21没(62才)。御遺告
(ごゆいごう)記す:死を目前にした空海が、自分の人生を回顧し、弟子たちが書きとめた文書である。
 3月21日、62年の生涯を終わる。死んだんではなく 入定した。という。
 高野山の弘法大師御廟へ安置される。
 今も、毎日2回 食事。「 維那 」という。
 マスクをした三人の僧侶が天秤で担いで運ぶ。
 空海は、独創的な書体(飛白:当時中国で流行した書体)を作った。
 刷毛を使ったような書き方で、うねるように躍動した書体で・・・「真言七祖像」にも書き残されている。今も、中国で、並ぶものがない書家とされている。

 しかし、一体どれが『空海』の本質なのか? それが解らない。」・と、司馬遼太郎氏は言う・・・、
 更に、解説は続いた・・・
 「 零(ゼロ)=空海 。 空海はどこにもいない。
 空海がどこにもなく霊気だけが在るとすれば、それは空海そのものである。
 大日如来は数で言う ゼロである。極大であり、極小であって、すべての世界現象は、ゼロの中にあって互いに関連し在ってくみ合わさっている。」と、・・・。
         
                                        
 
尚、参考文献には、主に以下のものの一部を使った。
   
1 「理科年鑑」 12 日本史事典  岩波書店
2 中央公論社「日本の歴史」別巻5    13 機関誌「かんなび」 愛知県教育関係神職協議会
3 理科年表1997年版及び気象庁資料 14 豊田市の石造文化財 市歴史民族調査報告  市教委 2002.3
4 図説 愛知県の歴史 河出書房 15 国史大事典吉川弘文館 国史大事典編集委員会編
5 目で見る豊田・加茂の100年 郷土出版社(1868〜) 16 松平郷  豊田市
6 新編 日本史図表  第一学習社 坂本賞三監修 17 豊田市七州城跡公園   豊田市
7 『日本の歴史』ー「日本」とはなにか   講談社 18 松平郷館   豊田市
8 遺跡からのメッセージ ー発掘調査が語る愛知の歴史ー          中日新聞社 19 豊田の史跡と文化財   豊田市教育委員会
9 県史23 愛知県の歴史 三鬼清一郎 著 山川出版社 20 豊田の文化財   豊田市教育委員会
10 「日本の名山」 作家・文芸評論家 高橋千劔破 MOKU出版社 21 特別展「川をめぐるくらし」 豊田市郷土資料館
11 古寺をゆく  小学館ウィークリーブック

☆ リンク ☆
参考文献
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