玄奘三蔵      編集・文責:本田哲康
                  

※ 三蔵法師(さんぞうほうし)とは、仏教経典である経、律、論(=三蔵)、すべてに精通した者を指し、単に「三蔵」と呼ぶこともある。 四大訳経家に数えられ、鳩摩羅什真諦不空金剛なども多くの教典の漢訳を手がけており、「三蔵法師」と呼ばれる。日本では一般に単に「三蔵法師」と言えば玄奘の事を指すのが殆どである。
         
注:この部分出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


◇ リンク ・・・ 唯 識 論
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玄奘玄奘三蔵の果てしない旅
1 真理を求めて     - 苦難の果てしない旅の行程 -  
  それは、実に17年の永い過酷な旅であった。その行程は以下のごとくである・・・。
 長安タクラマカン砂漠トルファンクチャタシケントバーミャンガンダーラブッダガヤナーランダ

☆ 「般若心経」を、サンスクリット語から中国語に翻訳したのは玄奘三蔵である。
 ☆☆ 三蔵法師の石棺発見 ☆☆ ・・・思いがけない大発見に関係者達は驚いた。   
 それは、こうだった!
 昭和12年、日中戦争最中日本占領下の中国南京において、日本軍の高森部隊が石棺を発見した。
 この石棺に、
三蔵大覚法師玄奘の頂骨は長安より伝えて此を葬る と記されていた!
 その後、
 ☆三蔵法師:玄奘の秘話☆
 遺骨の一部が日本に渡り、奈良薬師寺に安置されたのであった。→法相宗(ほっそうしゅう)
  注:法相宗は、玄奘三蔵の弟子・慈恩大師の開いた宗派だ。日本では薬師寺と興福寺を大本山とする。
 日本の弟子で、唐に渡った留学僧(るがくしょう)・道昭(どうしょう)が、玄奘三蔵の教えを受け日本へ法相宗を伝えた。
653年  道昭、この年入唐して玄奘(げんじょう)から受けた。(第1伝。)その後「法相宗」となる。帰国後、道昭は行基等の師となった。遺言により火葬されたが、これが我が国の火葬の始まり
 中国・日本の仏教の一学派。南都六宗の一。
 「解深
(げじん)密経」「成唯識論」などを典拠とし、一切存在は識(心)の作り出した仮の存在で、阿頼耶識(あらやしき)以外に何物も実在しないと説く。
 インドの唯識 派を承け、唐の基キを祖とする。奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。
平山郁夫画伯  氏は、シルクロードへ実に130回以上訪れて、玄奘三蔵をテーマに作品「大唐西域壁画」7場面の大作を産んだ。
 全部で、13の壁。高さ2m 横幅計49m
  玄奘の普段の旅を描いた。(着想して42年の後、 制作年数は17年間であった。)
 注:2001年、イスラム原理主義勢力 カタリバンにより、宗教的な理由によってバーミヤン石窟を破壊。
  
                                          写真:佐藤光史 氏による(上)
2 生い立ち
  このころ中国は混乱期
589年  随が中国を統一。
602年 玄奘(後の三蔵法師)、生まれる
                
☆日本のできごと:2月来目皇子を撃新羅将軍として2万5千の兵を動員する。
  10月百済僧観勒
(かんろく)、暦本・天文地理などの書を伝える。

3 幼少時代
611年  玄奘、当時10歳。 地方役人の父親(陳慧ちんえ)死亡。  
 その後 次兄出家先に引き取られる(浄土寺)
  科挙
(かきょ):旧中国で行われる官吏登用のための資格試験に挑む。
  彼は、13歳で合格した。
(500人中27人の合格。)
  年齢制限があったが、特別に僧になる受験を許可された。

 各地で、反乱の後、隋は滅亡する。
612年  随の二代皇帝煬帝(ようだい)の頃であった。皇帝は、この年大治水工事を敢行。また、朝鮮半島の高句麗を強行・遠征し、半分の兵隊が死ぬなど、悪名高い皇帝で国土は荒廃を極めていた。
 そこかしこに白骨が散乱する状況であった。
 玄奘三蔵の幼年時代である
(602年生まれ)、少なからず玄奘に影響を与えたに違いない。
615年  玄奘三蔵、次兄と共に洛陽から長安に移る。17才。
☆日本のできごと:
 聖徳太子等により、「三経義蔬(勝鬘経義蔬:611年・維摩経義蔬:613年、法華経義蔬:615年 )」完成

4 青年期
399年  法顕(ほっけん):長安を出発してインドに渡り、数多くの教典を持ち帰った名僧が居た。
618年  時は、唐王朝 初代皇帝 高祖の時代に、玄奘は多感な青年期を過ごした。
 この年、玄奘三蔵は次兄と共に洛陽から新しい首都長安に移り住む。(この時、17歳)

 多感な青年・玄奘は「荒れ果てた人間のこころ。真実の教えはどこに?」と、苦悶しつつ勉学に励む。
 玄奘の才能は、国中に知れ渡ることになる。
 彼は、「宗派によって教えが違うことに、真理は一つではないのか?」と疑問を抱く。
 格式の高い僧を尋ねて聞くが。しかし、納得の出来る答えが無かった。
 「自分も法顕
(ほっけん)のように天竺に渡るしかない。」 と、決断し朝廷に願い出る。
  しかし、朝廷は出国を許さなかった。
 ☆ 隋滅亡、唐建国。
         
☆日本のできごと:
 8高句麗より武器・土産物・駱駝を献ずる。 この年、安芸国で船を造らせる。

5 長安を出る
629年 28歳の玄奘、国法を破って長安を出る。 西へインドを目指す。
         
☆日本のできごと:翌年(630年)、第1回遣唐使派遣。
   「山海経」に、
  砂漠をひたすら歩く、その時の苦難の玄奘の旅の様子が記録されている。
 国禁を犯し長安を出た。手配される。手配の眼をくぐってインドへ向かった。
 苦しくても戻らない。決して、東にきびすを返さない。
 『不東』
(足を東に向けない)を心に誓って、ひたすら西を目指した。
 途中で、行き倒れの僧が居た。
 僧は、玄奘に一巻の教典を手渡した。「般若心経」であった。
 タクラマカン砂漠(死の砂漠と言われていた)に踏み込む。
 空腹と熱地獄の中をひたすら歩く。
 白骨が一杯散在していた。苦しい行脚であった。
 「化け物の仕業か?!」と、妄想に苦しんだ。
 
 砂漠の三分の一ほど来たときに、水の入った革袋を砂の上に落としてしまう。
 絶体絶命の危機に陥る。
 「不東の誓い」を我が身に言い聞かせて、4日間飲まず食わずで行脚する。
 教典「般若心経」をひたすら唱えながら進んだ。
    
<水も食糧もないと、三日間が生死の限界点だという。>
 5日目、意識を失う。
 夜になって、・・・・・、気を取り直し、老いたやせ馬を信じて、馬が導く方向に進む。
 そして、オアシスに出ることができた。
 何度も繰り返してシルクロードを往復した馬の経験に助けられた。
 だが、しかし、ここで盗賊に襲われる。

          
  また、途中立ち寄った国の王に、このままそこに留まるように脅される。
  王は、名僧をこの国に留めておきたかった。
  彼は王に説得した。結果、王はお供と馬を提供して送り出した。

6 天山山脈。  - 7日間かけて越える -
 天山山脈に至った。標高4,000mの山である。(我々の想像を超える厳しい旅路であった。)
 途中、一行10人中4人が凍病死する。一行は、7日間かけてようやくこの山脈を越えた。
  ついに、聖地に近づいた。バーミヤンの巨大石仏にまみえることができた。
 これは、実に長安出発から3年後であった。
631年 ガンダーラに到着。この時、玄奘三蔵、30歳。
 玄奘が到着したインドは、想像していたインドとは様子が異なっていた。
 仏教は衰退し、荒廃した寺ばかりが目に映った。
 仏陀入滅後1,000年が過ぎ、教義解釈の違いからインドでは大乗仏教と部派佛教の二派に分かれ、互いに勢力を争っていた。
 この状態は、その後も更に激しさを増していくことになる。
 佛教は崩壊の道を辿
(たど)っていた。
 仏陀の教えがゆがめられて、外道
(げどう)と言われる仏教以外の教えが広まっていた。

玄奘は、ある場所を訪れた。そこには、放置されたままの菩薩像があった。
菩提樹の根元であった。
この時、そこにインド僧たちが現れた。
玄奘は、彼らにナーランダに導かれることになった。

7 師に会う
 ここで、彼はシーラバトラに紹介された。
 師は、玄奘をあたたかく迎える。
 「三年前からずっとお待ち申しておりました。」と、彼に告げた。
 シーラバトラは、三年前に、病に苦しんでいた。
 彼は苦しみから逃れるため、この時、断食して自ら命を絶とうと想っていた。
 そんなある夜、不思議な夢を見た。
 仏陀がシーラバトラにこう告げたのだ。
 「今死んではならない!三年後、仏法を救う男が東より現れる。」と、・・・。
           
 やがて、
 三年後、預言通り玄奘が現れた・・・・・という。
 このことを聞いて『仏陀が自分を天竺に導いてくれたのだ。』と、玄奘は感じたのであった。
 シーラバドラに導かれるまま、彼は、唯一、インドで佛教を真剣に研究していたインドのビハール州ナーランダ大学に行く。
 当時は、ここには数千人の僧が学んでいた。ここで教典の研究を始めることにした。
           
 彼は、5年間で、ほぼすべての教典を自分のものとする。
 玄奘は、当時の最先端の教え、唯識(汚れた状態から、清浄なる清らかな状態に変える。)
も学んだ。
8 帰 国
643年  この年、玄奘は帰国を思い立った。
            
 ☆日本のできごと:
 蘇我蝦夷、私に紫冠を子の蘇我入鹿に授ける。蘇我入鹿、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲い自殺させる。
645年  玄奘、長安に帰る。
 民衆の熱烈な歓迎を受ける。彼は、英雄として迎えられたのであった。
 国禁を犯した彼には、これは予期しない状況であった。 
       
☆日本のできごと:
 岡崎市北野廃寺(白鳳時代前期:西三河最古の寺院)この頃建立。
 6/12大化改新始まる。中大兄皇子ら蘇我入鹿を殺し、6/13蝦夷は自殺。蘇我氏は滅びる。中大兄皇子は皇太子となる。
 蘇我氏の政変で、「天皇記」「国記」など焼失する。6/19初めて、年号を定め「大化」とする。
 8/仏教興隆の詔。東国の国司に戸籍を作らせる。奴婢の法定める。
 9/12中大兄皇子、古人大兄皇子を討つ。12/9難波長柄豊碕宮
(なにわながらとよさきのみや)へ遷都。
 当時の皇帝 唐の二代皇帝 太宗(たいそう)は、国禁を犯して出国した玄奘に、
 「そなたは出家のみ俗世の法などで、裁けるものではありません。」と迎え、・・・
 年下の玄奘を、太宗(たいそう)は、自分の義父として礼する。 

 玄奘は、 仏像7体 経本657部  持ち帰った

653年

(再掲)
 この年、日本から第二回目の遣唐使が派遣された。
 道昭、この年入唐して玄奘
(げんじょう)から教えを受けた。(第1伝。)
 その後、我が国の「法相宗」となる。 中国・日本の仏教の一学派である。
 南都六宗の一つ。
 「解深
(げじん)密経」「成唯識論」などを典拠とし、一切の存在は識(心)の作り出した仮のもので、阿頼耶識(あらやしき)以外に何物も実在しないと説く。
 インドの唯識派を承け、唐の基
(き)を祖とする。
 日本では、奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。

9 教典の翻訳をする
 瑜伽師地論(ゆがしじろん)(空思想の実践論)・・自己の心の中の汚れた部分を積極的に見直そうと言う教えである。
  その後、玄奘は18年間の後半生を佛教再生の作業に没頭する。
  その間に、 総計 74部 1,338巻 の教典を翻訳した。
 大般若経 600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成をも行った。

663年  約4年がかりで、大般若経600巻を翻訳し終わった。
 このとき玄奘は60歳を過ぎていた。
         
☆日本のできごと:
 3上毛野雅子ら、2万7千の兵を率いて新羅を討つ。8日本の海軍、白村江において唐軍に破れる。百済王は高句麗に逃れる。9日本軍は、百済の遣民と共に帰国する(これより日本は半島の権利を放棄する)。
664年  2月5日 玄奘三蔵63歳になっていた。
 総計74部1,338巻の教典を翻訳し、大般若経600巻:悟りの智慧の義を説く諸教典の集大成を成し遂げられた。
         
☆日本のできごと:
2月官位二十六階を定める。氏上(このかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)を定める。5月唐の百済鎮将の劉仁願が、使を遣わして物を献ずる。  この年筑紫に水城を造る。

10 その後、佛教の心髄として、日本に渡る
         我が国では、日本佛教の父→  釈尊
                    母→  玄奘
  と言われている。

☆ リンク ☆

参考文献
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