「仰木高耶」
その言葉がキーワードになっていたかのようにどうしても思い出せなかった20代以前の記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
幸せだった幼少時代。両親の離婚による悲しい記憶。中学生、高校生と。その全てに大好きな兄がいたことを。なぜ今まで忘れてしまっていたのだろう。そしてこの青年こそが大好きだった兄だとなぜ気づかなかったのだろう。
そんな美弥の考えを読んでいたかのように高耶が答えた。
「全て俺のせいだ」
さらに記憶がよみがえってくる。
そうだ、いつからか兄は帰ってこなくなったのだ。そしてたまに帰ってくると怪我していたり、やけに暗かったり。ときには数日見ない間にいくつも年をとったような瞳をするときもあった。
そしてあの事件。突如兄が犯罪者にされていた。あの兄がそんなことするはずがないのに世間は信じきってしまい糾弾する。
その矛先は自分や母にも向かってきた。しばらく苦しい思いをした。
そんななか兄だと思っていた人が実は四百年前に死んだ人だと知ったのだ。テレビで兄が自分でそう語っていた。その放送を何度も見た。何度も何度も。
そして騒ぎが収縮していっても兄は帰ってこなかった。兄が死んだということを兄と親しかった直江から聞かされた。
「ごめんな、美弥。おまえ達には本当にすまなかったと思ってた」
泣きそうになった自分の目を下から覗き込みながら誤る癖は昔のままだった。
それから高耶は美弥に全てを語った。その話は直江から聞いていた美弥だが兄から語られる話は全く違うように感じた。それでも彼らが必死で生きていたこと。お互いを思いやっていたこと。そして自分や家族に対して常に真摯でいたことは通じた。
話が終わる頃には美弥の目からは大粒の涙が次から次へと流れ落ちていた。
そしてわかったのだ。自分がこの世にどうして未練を残したのか。それは生前常に頭から離れず、ふとした瞬間に思い出しては悔いてきたことだった。
「お兄ちゃん謝るのは美弥の方だよ」
嗚咽をこらえながら涙でかすむ目で兄の目を見つめた。その目はいつも自分に向けていた優しさに困惑を混ぜた色をしていた。
「美弥ね、お兄ちゃんが上杉景虎だって知ったときお兄ちゃんを疑っちゃったの。いままで一緒に暮らしてきたのは一体誰なの?景虎って人に身体を奪われちゃったからあんな事件に巻き込まれたの?いつまでが美弥のお兄ちゃんでいつから景虎って人になっちゃったのって。でも違うって国領さんが教えてくれたの」
「国領さんが?」
「そう、お兄ちゃんはずっと昔からやっぱりお兄ちゃんで、今も美弥のお兄ちゃんだって。あの時怖い人たちから守ってくれたお兄ちゃんと、小さい頃お父さんから守ってくれたお兄ちゃんが同じ優しさだって気づいていたのに、お兄ちゃんを疑ってしまったの。ごめんなさい」
泣いてきちんとしゃべれなくならないように涙をこらえて高耶に謝った。それでも涙は今にも決壊しそうなほど浮かんでくる。
ふと、暖かい感触を頭に感じた。兄の大きな手が美弥の頭をなでたのだ。小さい頃父の暴力を見て泣いてしまった美弥をあやす為に自分の怪我の手当てを後回しにしていつもこうしてなでてくれたのだ。今のこの手はあの頃よりずっと大きく厚く、でも暖かさは変わらなかった。
暖かい高耶の手のぬくもりを感じ、こらえていた涙はついに流れ落ち、美弥が落ち着くまで高耶はずっと頭をなでていた。
それから何時間経ったのだろう。美弥が落ち着いて再び元気な笑顔を見せてくれるようになった。
足摺までのもう少しの間今まで離れていた分を取り戻すのだと、次々と質問攻めしてきた。
とくに直江とのことについてはやたらと詳しく知りたがった。「お兄ちゃんがインタビューで言ってた魂を分かち合う人って直江さんのことだよね?」と目を輝かせて言ったときにはさすがに隠れたい一心だった。
「でもね、足摺についてもまだ向こうにいけない気がするの」
美弥の未練は残っていないはずなのになぜかそんな風に感じられるのだ。美弥自身がそう感じるなら多分このまま足摺についても浄化できないのであろう。
「なんだろう、まだ何かお兄ちゃんに言ってない気がするの」
謝るとかではない。もっといつも言っていた言葉だった気はするのだがどうしても思い出せない。
このままではまた悩みだして苦しんでしまいそうに高耶には見えた。
「大丈夫。もう少しあるから歩きながら考えよう。話していたら思い出すかもしれない」
そういってその場に留まりそうな美弥を先へと促した。
死者にとってここは浄化する前の通過点に過ぎないのだ。早くあの世に行って新たな人生を歩む為の準備をすることが大切なのだ。ここに長く留まればその分次へ進むのが遅くなる。
もちろん高耶にとって久しぶりに会えた可愛い妹がいなくなってしまうのは淋しいことだがこれが本人にとって一番いいことなのだ。
ふと、美弥の話にある共通点があることに気がついた。それはいつも家族が帰ってくることを待ってるときの話が多いことだ。
出て行ってしまった母を待っていた。父とけんかして出て行ってしまった兄を待っていた。結婚してからも夫の帰りを、子供達の帰りをいつも不安そうに待っていた。
そうだ美弥はまだ待っているのだ。あの時必ず帰るからという高耶の約束を信じて帰りを待っていたのだ。
自分のせいで美弥はこんなにも人を待つことに不安を抱えてしまっていたのだ。これを取り除かねば美弥は次に進めないのだ。
「美弥、覚えているか?松本の家」
「もちろんだよ。だってあの家にはお兄ちゃんとの思い出がいっぱいなんだもん」
無邪気に美弥は答える。バイクの雑誌で埋もれていた兄の部屋や、兄と一緒にたったキッチン、兄が座って靴を脱ごうとすると自分の立ってる場所がなくなってしまいそうになる小さい玄関。目をつぶると小さな傷さえ思い出せそうだ。
「目をあけてごらん、美弥何が見える?」
回想している美弥に高耶は声をかける。
美弥は思い出の余韻に浸りながら目を開けるとそこにはあの松本の家の風景がよみがえっていた。そして自分が立っているのはあの小さな玄関だ。
ただ先程まで近くにいたはずの高耶の姿が見当たらない。すぐ近くにいるはずなのに。急に不安になってきた。
「お兄ちゃんどこ行っちゃったの?」
不安にかられて声が裏返る。
「大丈夫、落ち着いて。俺は近くにいるから。それよりもう一つ言わなければいけなかったことを思い出してごらん。自分が今何をしているのかを」
姿は見えないけどどこかから聞こえてくる兄の声に言われるまま、自分がここで何をしているかを思い出そうとする。
この不安は何なんだろう。どうしてここに立っているのだろう。
玄関は嫌いだった。どうしてなのかいつからなのかわからないけどなぜか不安にさせるから。昔はそんなはずなかったのに。それなのに誰かが来たわけでもないのに玄関にいってしまう。それは結婚して新しい家に行っても変わらなかった。
私は何かを待っていた。
それは「ただいま」と家族が帰ってくるまで日に何度も行ってしまう習性になっていた。何かを待っていたのだろうか?家族?友人?それとも大切な荷物?
そんなとき玄関のチャイムがなった。子供達ならにぎやかな足音とともにあわただしく扉を開けるだろうし、夫はまだ帰ってくる時間ではない。友人がくる予定もなかった。
ドアをあけると西日で逆光になっていてよく顔が見えない。でもこの背格好には見覚えがある。やっと目が光に慣れると顔つきが見えてきた。
その人は意志の強そうな瞳、すこし厚めの唇を照れて恥ずかしげに笑いながらこう言った。
「ただいま」と
美弥は一瞬目を見張ったが自分の大好きな人だと気づいて答えた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
その瞬間にいままで見えていた玄関は光を発しながらなくなっていくがそんなことに気づかずに美弥は高耶に抱きついた。
「やっと帰ってきてくれたんだね。美弥ずっと待ってたんだよ」
「ありがとう美弥。遅くなってごめんな」
家の中の風景が完全に消えてもとの景色が戻ってきたころ美弥は自分の身体が突然軽くなったことに気がついた。
「あそこに見えるのが足摺岬だよ。もう行けるな?」
それは子供に初めてひとりでお使いにでも行かせるような口調だった。
「また、会えるよね」
「そうだな。美弥がいい子にしてれば」
高耶は自らの魂核寿命のことは教えていなかった。
もっとも教えていても美弥はそう言っただろうし、高耶もそう答えただろう。
二度と会えないことに気づいている美弥はまた涙があふれてきた。
でも最後くらいは笑っていたい。いつまでも兄に心配をかけてはいけないし、兄に最高の笑顔を覚えておいて欲しいのだ。それに涙のお別れなんて本当に二度と会えないようで嫌だ。 だから最高の笑顔を、と涙をこらえて元気よく言った。
「いってきます」
あっけにとられた高耶の顔がいつもの優しい笑顔に変わった。
「いってらっしゃい」
その言葉を聞くと美弥は手を大きく振りながら走っていった。
明るい方へ。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
最初は美弥ちゃんのための話だったのにいつの間にか高耶さんの鎮魂の話になってしまった。
本当はもっと直高ラブ話を書きたいのですが、原作終了後に書き始めたものとしては高耶さんの死を受け入れ、超えてからでないと書けない気がしてしょっぱなからこんな切ない(?)話になってしまいました。
いつかは直江のその後もかかんとな。そしたら心置きなく直高ラブ話書けるのに。
でも直江って薀蓄長くて書きにくいんだよね。
なんと言ったって私高耶さん派ですから。
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