ついに私の執念が実を結び、高野山に寄ってくれることになりました。しかし相変わらず地図を持ってない二人なのでガソリンスタンドで道を聞く。親切なおじさんが地図をくれたのでこれで安心。
そこから車を走らせること一時間あまり。山間の温泉地「竜神温泉」に到着。ここは先ほどのスタンドのおじさんがおすすめしてくれたところなのでせっかくだから入ってきました。白浜との違いはやはり山の中と言うことでしょう。背後には深い緑の中、初夏の日差しを反射する目にまぶしいくらいの新芽の緑、前方の崖の下を流れる川。日本三美人湯の一つらしいので少しはきれいになれたかしら。
温泉入ってすっかり極楽気分な私が眠っている間に高野山に到着したようです。想像していた以上の人と車の多さに驚きます。
どうやら到着したのは高野山の一番奥だったらしいのでタクシーで本来の入口の大門までいきます。タクシーに乗っている間にどうしてこんなに車が多いのかがわかりました。道が細い上にあちこちに路駐しているからです。しかも全然端に寄せずに。そりゃ、渋滞もするわ。もともと寺だらけのところなので簡単に道幅も広げられないし、駐車場も作れない。仕方ないことですが、ならせめて遠くからシャトルバス出してくれればいいのにと思ってしまいました。
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大門から少し行くと真言宗の根本道場の壇上伽藍に着きます。伽藍とは僧侶が集い修行する閑静静寂な所という意味だそうです。ここには高野山開創当時最初に建てられた諸堂が並んでいます。また、空海が帰国前、どこに根本道場を建てるか決める為、唐から三鈷杵を投げたところ、高野山の松にかかっているのを発見しここに伽藍を開創したと伝えられた三鈷の松がありますがなんの予習もしてきてなかったので見向きもしませんでした。
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金堂はどうやら入場制限をしているのか列が出来ていたので時間がなかったの で見てきませんでいたが中からかすかに聞こえるのは真言では?お経とは全く 違う異郷の響きに心を奪われます。 |
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大塔はコンクリート製ですが朱塗りが白地に鮮やかに映えます。内部は中央に胎 蔵界の大日如来、その四方に金剛界四仏が安置され、さらにその周囲に十六大菩 薩が描かれた朱色の柱で作られた立体曼荼羅の世界です。 |
さて大門のあたりから少し感じていたのですがこの伽藍、特に大塔内に入って核心したのは空気が違うんです。大門では山の下から伽藍に向けて吹く風が心を洗い、すがすがしい気持ちにさせていたのですが、伽藍に来たあたりで空気の密度が濃い気がしていたのです。それが大塔内に入って吸った空気は浮き輪からぎゅっと押し出した空気を吸ったときのように圧縮されているのです。追い討ちをかけるように真言を聞くと濃い空気を胸に詰め込まれて息苦しく感じるほど胸が締め付けられます。ここは真言密教という一つの世界が成り立っていると感じられます。
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金剛峰寺は本来高野山一山の総称であったが、豊臣秀吉が建立し文久三年に 再建された青巌寺が明治二年に金剛峰寺と改称され一つの独立した寺となりまし た。しかし高野山全体を総括する伝統は残されていて高野山の総本山として、信 徒の信仰の中心となっています。 |
総本山と言うだけあってかなり広く見所も多く、また広間でお茶しながら説教も聞けるらしいのですがなにぶん時間がなかったのでほとんど覚えておりません。
金剛峰寺を出るとかなり怒ったMちゃんが待っていました。ここから先の運転のことを考えてかなりイラついていて一触即発の険悪なまま奥の院へ続く石畳を歩きます。
奥の院へ続く道の両脇に十万を越す苔むした墓石が林立しており、織田信長、武田信玄など名立たる武将もここに眠っています。静かな石畳を歩いているうちに先ほどの苛立ちも薄れていきます。ただ時間がそうさせたのか、この少し暗く一人では決して歩きたくない墓石の道を歩いているせいなのか、それともお大師様の念が満ちた柔らかな空気がそうさせたのか。
墓石群の最後に弘法大師御廟所の奥の院にたどり着きます。大師信仰の中心聖地。弘法大師は今もなおここに参るあらゆる人を救いつづけていると信じられています。
虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、
我が願いも尽きなん
いつか大地も天も崩壊し、人々は絶え、悟りも滅び、何もかもが尽きてしまえば私の願いは尽きるだろうが、これらは無限だから私の願いは死なない。この世の最後のものが救済されたとき私の願いも尽きるだろう。
御廟所を見たあとに奥の院拝殿の地下に入りました。中には何万という数の小さな仏が整然とならべられていました。そしてここの空気はあの伽藍で感じられた自分という存在をつぶされてしまうのではないかと圧倒された強い空気ではなく、奥の院への道を歩き出した頃から感じられる柔らかく包み込まれるようなものでした。もしかしたら上でお金を払えばここに自分の仏(死んでないのにそういうのもおかしい気もしますが)を置いてもらうこともできたのかもしれません。
奥の院を後にし、駐車場に向かう途中にもまだまだ墓石はありますがこちらは企業の慰霊碑が多いです。なかでもおかしかったのは靴下メーカー福助の自社マスコットの石像や、シロアリ退治の会社の「しろありよやすらかに眠れ」
さてこうして無事に仲直りして高野山を後にしますがこのとき役に立ったのは行きに乗ったタクシーが通った道。裏道を教えてもらっていたので幾分か早く高野山を抜けることが出来ました。
高野山から二時間ほどで和歌山I.C.に到着。帰りは西名阪で天理までいきそこから名阪国道で関まで走らせ、ここで本日は終了。翌日亀山から東名阪→伊勢湾岸道→東海環状道勘八I.C.で無事に帰ってこれましたが帰りは奇跡は起きず、やはり寝ていました。
後日談
有馬皇子のことがどうしても気になって調べてみました。
有馬皇子は孝徳天皇の子でした。孝徳天皇の死後、斉明天皇が即位しましたが実際には大化の改新の中大兄皇子が実権を握っておりました。有馬皇子が薦めた牟婁の湯(現在の湯崎温泉)へ斉明天皇が行幸していたとき中大兄皇子と蘇我赤兄の謀略により謀反を計画したとされて捕まえられ斉明天皇の待つ牟婁へ向かう途中に詠んだ歌だったのです。
私はてっきり有馬皇子だから有馬温泉だと思っていました。
執念の勝利(3)
和歌山ツアー