帰る前にやっとメインの熊本城に行けました。
加藤清正は豊臣秀吉の子飼いの武将で秀吉によって肥後27万石を与えられます。しかし秀吉の命で行かされた朝鮮出兵で他の武将と意見が合わず、関ヶ原の戦いでは徳川方についたおかげで52万石に増やされます。それでも秀吉への恩は忘れず、家康に秀吉の子秀頼の命乞いをしますが陰謀か病気かで死んでしまったという人です。
![]() 二様の石垣 |
さて実際に中に入ってみると多くの曲や堀、石垣があり迷路のようになっています。 熊本城は清正が今までの戦や城作りの経験を全て生かしたといえる城です。篭城に 備えた120もの井戸、櫓内には備蓄米、また最悪の事態に備えて、天守閣のみでも篭 城できるように天守閣内にも井戸があります。 その難攻不落は西南戦争で証明されました。篭城した官軍に対して、西郷率いる薩 摩軍は一兵たりとも中に入ることは出来ませんでした。しかし日本建築の悲しい定めで 火には弱く原因不明の出火によりほとんどが焼失してしまいました。 |
![]() 不開門 |
現在でも当時の姿が残っているのは不開門(ただし常時開いています。城の鬼門と いうことでこの名がついています)と宇土櫓のみです。もっともそのとき焼失していなくて も明治政府に解体されていたでしょうが。 |
数奇屋丸二階御広間は平成元年に復興されたものですが木造で出来ており、通常復興にはお金のかからないコンクリート製で造られるので最初は当時の建物かと思ってしまいました。
![]() 大天守と小天守 |
大天守内部は資料館となっていますが寒い。寒くてろくに展示物を見る余裕がありません。小天主の内部は見れません。また加藤家はもともと尾張出身でしかも清正の次の代で取り潰しとなってしまいその後細川家となったので展示物はあまりありません。この細川家、数年前総理大臣になった人のご先祖様です。どんな顔だったのかまったく思い出せません。 |
![]() 宇土櫓と曲線を描く石垣 |
さて焼け残った宇土櫓に行ってみましょう。そこらの城の天主より立派です。しかし寒 い。当時のままの姿ということはもちろん木造なので靴を脱がなければならない。もちろ んスリッパはない。当時の人はよくぞ耐えた。誉めて遣わすぞ。というわけでまたもや寒 さに負けて逃げ出しました。 |
お城を出ると隣には加藤神社があります。その名のとおり清正を祀った神社です。ここでやっと初詣。おみくじの結果は…。
こうして長かった旅も終盤にさしかかり、熊本ICから九州自動車道にのり一路愛知に向かうのですが心配は雪です。通行止めを恐れながらそれでもSAごとに名産品を買うことは忘れません。これも旅の楽しみの一つです。
雪を心配していましたが無事に門司に着きました。 関門海峡を初めてわたったときは電車でした。そのときは電車は海の下を通るとは知ら ずに驚きましたが、今度は逆に車は上を走ります。またもや驚かされながらも九州に別 れを告げます。 |
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しかし私たちは甘かった。九州のあの雪なんて可愛らしかったのだ。
山口に入ったとたん今度こそトンネルを抜けると雪国でした。高速道路上も脇に雪で壁が出来ている。夜には凍結するだろう。
教訓:日本列島冬はどこに行っても雪が降る。
この日は休憩、渋滞込みで9時間走り岡山市で泊まりました。
1/3
泊まったホテルの近くに岡山城があるようなのでせっかくだから見ていこうかとなったのですが標識どうりに進んできたのに見つからない。あきらめて帰ることになりました。
しかしどこにいってもそうなのですがもう少し道路標識は旅人にわかりやすいように書いてほしいものです。現地の人にしか理解できないものが多すぎます。
さてどんな魔法をつかったのか気がつくといつもSA。そしてさっきまで渋滞していたはずなのにもう豊田ICの手前。
「あれ〜?」
「あれ〜?じゃない!おまえ半分以上寝てたぞ」
と、いつものように怒られながらも無事到着できました。
全走行距離1572k。
東京まで行って帰ってもう一回行ける距離を一人で走ってくれたMちゃんとVitzくんに感謝です。
冬将軍到来 (4)
宮崎、熊本ツアー