所在地 | 山形県山形市霞城町 |
遺構 | 石垣、土塁、復元二の丸東大手門など |
形式 | 平城 |
築城者 | 斯波兼頼 |
築城年 | 延文2年(1357年) |
撮影日 | 2004年5月1日 |
山形城
![]() 東大手門 |
感想 山形駅からてくてくと歩いていくと今年も出会いました「メーデー」に。 どうして観光地とかで多いのでしょうか。去年は長野県善光寺であいました。 全く下調べせずにやってきたのでその大きさに驚かされます。 まあ、伊達政宗と伯父、甥の関係であり、宿敵でもあったのですからその規模もうなずけます。 復興された東大手門から入ると最上義光像が迎えてくれます。 仙台城の伊達政宗像と違い勇猛さを現しています。 南門にむけて石垣の上を歩けるようになっていて両脇に桜並木が続きます。 残念ながら桜は終わってしまった後だったのですがとても見事な桜なのでしょう。 また、東大手門の手前には最上義光歴史館があります。先にこちらを見ておけばよかったといつものことながら後悔しました。 なかでも印象深いのは駒姫の話です。 駒姫は最上義光の娘で、豊臣秀次の側室(だったと思う)になられた人です。 しかし秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられ高野山に送られ切腹させられたとき、駒姫も京都の三条河原で処刑されてしまいます。 最上義明は家康にも頼み、秀吉に駒姫の助命を願いいれるが聞き入られませんでした。 私の中の最上義光像は甥である伊達政宗にも容赦のない人というものでしたからこの話を知って大きく変わりました。 また、この歴史館は無料資料が多く置いてあるので記憶力の弱い私にはかなり助かりました。 |
![]() 最上義光像 |
歴史
山形城は最上氏の祖である斯波兼頼であると伝えられている。
そして11代最上義光が関ヶ原の戦功で57万石の大大名となり本丸、二の丸、三の丸を築いき、奥羽の押さえとしての役割を担った。
しかし最上義光没後、家督争いなどが絶えず改易となり、鳥居忠政が入部した。
このころまでは山形城は奥羽の押さえとしての城であったが、徳川政権が安定するのに従って譜代大名の転封地となった感があり、最後の城主水野氏が入部するまで11家の大名が交替したがそのたびに石高が減らされた。