韓国への旅 その2
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 河回(かへ)村の家と家の間に通路。土塀で仕切られている。
 沖縄のような雰囲気がある。・・と思った!?
 親愛なる韓国、兄弟の人々。 
 しかし、今、若者は殆どが町に出て、老人達の姿ばかりが多い。しかも、観光客の目に晒されるのを好まず、あまり外出しないそうだ。
写真は、我々一行。
もちろん、草屋根の家ばかりではない。この家も土塀に囲まれて、木の扉を開いて家の庭にはいる。”口”の字状に家は造られている。門から入ってパチリ。後ろが木製の両開きの扉。その左右には倉庫とか、居室、家畜の部屋がある。 稲藁を使って、屋根を・・・。土塀の上も瓦を使わない家もある。茅葺きとは違って、10年は保たない。
 もうそろそろ葺き替え時か?!キノコが生えている家もあった。

この家は、土塀の上が藁で葺いてあった。
 そろそろ、葺き替え時が来たようだ。
どの家の字も、どうも同じ人の手によるもののように思えた。

 この国では、字の上手い人は尊ばれたそうだ。

 依頼されて書いたものらしい。日本では、和歌の上手い人が尊ばれた。
自分の田舎に帰ったような気分にさせられるのは、何故だろうか?

 遺伝子の記憶だろうか?!





この家では、ばあちゃんがこころよく対応してくれました。自分の田舎に帰ったような気分にさせられるのは、何故だろうか? 遺伝子の記憶だろうか?!
 昔、日本の母は北から南へと、移動をして、日本海を渡ったのだ。韓国の地に馴染みながら、何世代もかけて移動する。勿論、この間に交婚もあり、結果、遺伝的にも一番近い民族。
大きなケヤキの木。株立ち。樹木の株の真ん中にセメントの台が、飾り気もなく置いてあった。年に一度、左手の山から神が下りてくる。
 神は、村人が演じ、仮面を被って降りてくるそうな・・。
 これを村人全員で迎えて、この樹の周りを踊り、家内安全・豊作を祈願する。
村にある「仮面博物館」で・・。
 仮面というと、輪島の御陣所太鼓の姿を思い出す。
 仮面は、しかし、ここで見る限り世界各国の人がいろんな場面で使っているようだ。
 日本の能面は、伝統芸能として知られているが、日本では通常子供の玩具くらいにしか使われない。
家ごとにいろんな文字が書かれて、左右に張ってある。上手い字だった。「対聯」たいれんと言うモノだそうだ。縁起の良い言葉が書いてある。中国から伝わった習慣で、なんでも、昔、中国の王様が鬼が枕元に出てきた夢をみて、大変苦しみ、部下にその事を洩らした処、その部下が、武術に長けた武将を門番として、夜通し立たせた。これが始まりらしい。(これは、帰ってからMLの物知り博士から教えていただいた。)それ以後、王様は悪夢に悩むことはなかった。武将は、剣とさすまたを両手に持ち、夜通し立ったので、王様は、辛かろうと考え文字を書き、門に吊るし、武将のお役目を免除した。それが、起源だそうです。対(つい)ではなく、一枚のものもあるそうです。
 安東・河回村 Andon Hahoe Maeul歓迎会(晩餐会)で、おもてなしを受けた。
 市長さんの挨拶。この時の仮面舞は日本の狂言を思わせる。即興の言葉を挟み込んで・・・、鐘や太鼓・大きな鼓(つつみ)で賑やかだ。










そのときの仮面舞、演題は二つ。
始めの演題は、大きな牛を捕まえて、心臓・ふぐりを取り出し、「どうだ買わないか?」と、参観者に呼びかけた。最初に鹿児島県からの参加者に、次は市長さんに・・。市長は、1万Wを二枚渡し心臓を手にしようとした。「あげないよ!」と引っ込めて、皆を笑わせた。
 これは、修行僧が道であった女性に心を動かされて、ついに破戒僧となる場面。

 我が国の、能楽を連想させるものであった。
 「やはり、兄弟国だ?!」と、
独り合点。
仮面舞。右はびっこでやや頭の悪い男。左は、修行僧が道であった女性に心を動かされて、ついに破戒僧となる顛末を噂しているところ。
 終わって、乾杯。
 気分良く酔ってきた。
 小生、日本の民謡を返礼のつもりで、・・。
 ♪音痴でも構わない!
 「黒田節」&♪松島〜の サヨ〜♪ ・と。・・。 心は通じたか?
 小生、音痴の民謡をご披露。アリランを聞かせてくれるよう。お願いしてみた。
 仮面舞保存会の会長さんがアリランを聞かせて下さった。
 哀愁のこもったアリランが館内に響いた。
 パークホテルに白。
 8月20日(水)
 
 安東(アンドン)から龍仁に向かう。ガイドさんが誠に上手なアナウンスだ。
 野山は、まだ健全だった。酸性雨は無いらしく、松枯れも見られなかった。
 松茸は、春と秋と二期採れるという。うらやましい。
 葡萄は、日本とは違う枝の仕立て方であった。
 フランスの方式。T字状の枝を張らせない方法だ。





 利川の「龍仁 Yong-in 韓国民族村 」に到着。
昼食は、この韓国民族村で石焼きビビンバ定食。期待して回ることにする。
 つい、喰うことが先になる。お恥ずかしいが、美味しいのだ。
 利川市には、また、ここの観光公社の職員が、待っていてくれた。






釣り鐘状になっているのは、小石が積み上げて造られている。

 「お金は出せないが、心を示す」神への『こころざし』と言うことだそうな。形状が釣り鐘状なのが興味深い。

その左には、男根の形状と神が祀られている。村の入り口。



そして、入り口を入ると、人面をしたこのようなものが出迎えてくれる。陰と陽の思想。
 至るところに、『祈り』がある。日本人の考え方に似ている。どちらが似たかと言えば、日本人がこの思想を携えて日本列島にやってきたわけである。
 人類が北方樺太、朝鮮半島、そして沖縄を中継してアジア諸島から移動してきたのだ。
 親孝行の認められた青年が、住まう館だということだった。儒教の国らしい。
そして、入り口を入ると、人面をしたこのようなものが出迎えてくれる。陰と陽の思想。
 至るところに、『祈り』がある。日本人の考え方に似ている。どちらが似たかと言えば、日本人がこの思想を携えて日本列島にやってきたわけである。
 人類が北方樺太、朝鮮半島、そして沖縄を中継してアジア諸島から移動してきたのだ。
 いわば村長の家。

 村の争いごとがここで裁かれもした。・・・という。














 裁定の場面を再現してある。
 当時の服装を着た人形。














罪状によっては、この十字の台にうつ伏せにくくられて、罰を執行された。
 棒で叩かれたりもした。
 右手に見える部屋は、罪人を入れるところ。

ところで、
 我が国でも、「五人組帳」等といって、数十ケ条・・あるいは百に及ぶ決まり事を書き記して、毎月〜年に数回、組頭は村の組衆に読み聞かせ周知徹底をはかり、それを御上(領主)に提出・報告した。
 自治はしっかりと保たれて、相互扶助の風習もあった。
 今は、ハングル文字ばかりの国。
 しかし、毛筆で書かれた文字の美しさに見とれた。

 前掲の「裁きの部屋」の右横の部屋。


 ☆ この民族村で昼食。
 石焼ビビンパ。






結婚式。

 説明では、確か新婦の家で行うとのことだった。
 左の奥が新婦。右の紺色の正装した青年が新郎。
 榊か何かの飾りの向後に、式典を司る中年の男が居た。










 式の後、輿に乗って新郎の家に・・・。
 昔は、「3日間のためし婚だった。」と聞いた。 『今もですか?』と聞いた。
 女性のガイドさん、眉をひそめて『いいえ。もう今は・・。』と、笑いながら応えた。

 今、韓国は日本同様に核家族化が進んでいる。マンションに売れ行きが良いそうだ。






 利川村に向かう手前に「天下大将軍」「地下女将軍」なる陰と陽の祈りの鳥居。・・・。鳥居のようだが、韓国では、この形を鳥居とは言わない。
 韓国で言う「鳥居」は、細い長い木の先に先を”4”状にしてここに木製の鳥を付け、さらに木彫りの男根を模したものを2〜3個結びつけ、トウモロコシも添えてつけ・・、高く掲げてあった。場所は違うが、必ず村の入り口近くに、この2種は在った。
 職業高校を見学。
 「利川第一高等学校」。日本の工業高校と姉妹校提携を結んでいる。
 最先端技術を導入し、短大を見ているような感じを抱いた。
 ここは玄関。農業に関する学科も設置されている。
 そのせいか、水槽や盆栽がきれいに管理されて、玄関を飾っていた。




 世界陶磁器展が9月より開かれるという。
 日本の作家が10名程予選を通過して展示される。
 開催前に、見させていただいた。









 後、利川陶芸村。
 陶磁器博物館で登り窯をみた。詳しいことは知らない。陶磁器の窯はどこも同じに見えた。

 ところで、ミトコンドリアDNAは、集団が2万年程経過すると、一つの型になるという。人類皆兄弟。肌の色などは、環境に適応して2千年程で、白→黒に変わるそうだ。黄色はその中間。
 科学は、絶え間なく真実を明らかにしてゆく。
 そうだ、「真実」はいつか必ず、明らかとなるのだ。
 博物館の下の広場。子供達も遊べるようなデザイン。下に街が見える。
 このオブジェ。思わず。
 『ふぐりに見える!!』と、過日の「仮面舞」の思い出を引きずったままの小生。
 すると、『いやぁ、お尻でしょ?!』と、男性の参加者に返された。
 残念だが歳の相違か?しかし、次元は同じだが。
 その後陶磁器販売街見学。大きな壺が、2〜3,000円にびっくり!日本の十分の一か?!
◇ 夕食:利川サルバップ家でサルバップ定食。
 
 利川支社の職員に晩餐会で歓迎された。
 ここで、『爆弾』の製造方法を修得!!
”焼酎のビール割り”のことだ!

◇その後、ミランダホテル泊。ホテルの玄関に壺の展示販売。先の場所の物の約十倍。それでも安いと感じた。日本の5分の一くらいか?
 利川からソウルに来た。日本の佐渡島と、ほぼ同じ面積だそうだ。東京都とほぼ同じ人口が、日本の佐渡島の面積に集積している。韓国の人口のおよそ四分の一の人口。 朝夕の道路の渋滞がひどいそうだ。
 平均時速18Kmと聞いた。近代彫刻のモニュメントもあり、ちょっと、路地にはいると、狭い路地に活気もある。この後で、免税店に行く。しかし、湿気の多さに辟易する。
ウォンのおよそ10分の一が、日本の相場だ。安いと思った。
 しかし、車・電気製品は日本よりも高い。ご注意を。ちなみにガソリン1Lが143円だった(この時期、日本ではまぁ、93〜103円))。
 写真は、韓国ソウルでの日本食の定価であった。W4,500は、およそ450円。




 昼食は、「鐘路蔘鶏湯」で、蔘鶏湯サムゲタン。鶏料理。いやぁ。美味・美味!!
 しかし、鶏の苦手な女性は、食べられなかった。この後で免税店。「東和免税店」
 印鑑を、6,500円で三分間で、掘って貰った。木製で精密な彫刻がしてある。
 日本で買えば、2万円はすると思った。
 革製品は、展示品をそのまま商品とするから、帰って傷の多さにガッカリした。





 食して後に、振り返ってパチリ!
 老舗らしい構えだった。
 勿論、昼食にはビールも出た。
 遠慮無く、観光社にお願いしたからだ!
 ところで、最後の宿泊場所は、ウォーカーヒルホテル。ここが一番良かった。
  所在地:ソウル市広津区広壮洞21
   http://www.walkerhill.co.kr
 ホテル内に、免税店もあった。



 臨津閣『自由の梵鐘』。
 板門店まではゆけなかった。
 
 同じ韓国に、政治の線引きがなされて、情が分断されている。罪なことだ。この後、北から掘って進んできた第三トンネルに降りてみた。
 ここから、左手に自由の橋全景が見える。
「自由の梵鐘」の左側から、かつて北に捕らえられた捕虜27000人が、ここを通って、南に帰ったと言う『橋』の跡を見た。ここには、北の兵士が数人警戒していた。見れば童顔の若者。撮影禁止とのこと。「政治のイデオロギーに捕らわれて、哀れなことよ!」同じ民族が、”情”を分断されている。「ままよ!」と、腰のあたりに構えて、シャッターを・・・。
この後、第三トンネルへと向かう。
 第3地道の入り口にあるモニュメント。
大きな球の分断された部分には、朝鮮半島が南北に分かれていた。
 この第3トンネルは、1978年に発見された。北の南方侵略用のトンネルで、幅2m、高さ2m、1,635mの長さ。南方限界線まで435mの距離にあり、一時間あたり1万人の兵士の移動が可能である。
 2003年3月以降、シャトルエレベータで降下できる。
 川を挟んで、相互に2kmの非武装地帯。
 この中には、希望する農家は農業が出来る。しかし危険もある。
 入り口は2カ所しかない。そこで、入り口近くには、農業者も居た。「危険」と「不便」の代償で、税を納めなくても良いのだそうだ。
 ところで、今年は、何処も農作物のできが悪い。
 米には、穂が出ていない。キムチの材料の赤唐辛子は、長雨で立ち枯れが多い。

 これは立体模型の地図。


都羅展望台。
 DMZ映像館で、3D完全立体映像で、南北分断の歴史を紹介された。
 ここにこの展望台がある。北朝鮮を最も近くに見られる南側の最北端展望台。
 缶ジュースが35円であった。ここは特別安かった。
 通常は、この類は日本とそれほど変わらない値段であった。10〜15円程安かったかなぁ?!
  ここの二階に模型の立体地図があった。

 夜は、貞洞劇場の公演。
 夕食も歓迎会をしてくださった。焼き肉・ブルコギ。
 韓国観光公社のソウル支社主催。韓国の高校校長会長も参加された。やはり”爆弾”で、熱烈に歓迎された。
 コップにビールを注いでおいて、これに焼酎を小カップに注いでカップごと沈めてミックス。これを、向こうでは”爆弾”と称すそうな?!発祥は、軍隊。
夕食は「韓一観」で焼肉 ブルコギだった。

 ウォーカーヒルホテル。
”爆弾”とは物騒だが、結構いける。
@ 先ず、ジョッキにビールを注ぐ。
A ジョッキの上に金属の箸を渡す。
B 焼酎をガラス製の小グラスに一杯。
C この橋の上に、僅かに架けて焼酎グ  ラスを。
D さて、準備が整ったら、「『○×企業又は上司名』に忠誠を・・!」と、額を食卓にぶつける。箸から焼酎のグラスが落ち込む。・・・できあがり。乾杯。
Korea House(韓国の家)で、キムチ作り体験。
 韓国伝統文化と生活風習を紹介するための韓国家屋の建物。李氏朝鮮時代(1392〜1910)の王宮である景福宮慈慶殿を手本に建てられたもので、伝統様式の瓦屋としては韓国内でも唯一の建物。
隷書体の看板に見とれてしまう程にすばらしい。どこに行ってもだ!
本館である海隣館、民俗劇場、3軒の別館建物 (聞香樓、緑吟亭、聽雨亭)となっている。
http://www.koreahouse.or.kr (韓/英/日/中)
 入ったところ。
 このまま奥に進んで、左に体験の会場が準備されていた。

 全員、手を洗ってキムチ作り実習の指示を待つ。





 本来は、屋外の中庭で実施されるものらしいが、天候の心配もされ、尚、外が暑いとのことで、特別に室内に会場を準備してくださった。
 心のこもった館の配慮に頭が下がった。

 韓国本場のキムチ作りを行って、レシピを入手。

 _<(_ _)j メモメモ。





韓国の青年は、ほとんどみんな瞳が澄んでいた。何処でもそうだった。
 何かを疑って、下心をのぞき込むような、どこか『豊かな』国の青年達に時々見られる不純な眼(まなこ)は、韓国のどこにも無かった。(勿論、小生に下心は無かった。お断りしておく。)
 儒教の影響かなぁ?!
 キムチの体験の後、この中で昼食。
景福宮 ソウル市鍾路区臥龍洞2-71

 昌徳宮は、公的空間である宮闕と王家の居所である宮、そして庭園である後苑に大きく分けられます。






昌徳宮は朝鮮時代の宮闕建築の脈を引く唯一の宮で、王たちの休み場として使用された。
 その後苑は、300年を超える巨木がそびえており池、東屋など造園施設が自然と調和を成した所であった。




 敦化門を通り昌徳宮に入ると、右側に太宗11(1411)年に造成され、今も残る石橋の中で最も古い橋・錦川橋がある。それを渡ると他の場所の正殿とは異なり、屋根の棟の花模様が独特な仁政殿がある。これは日本が朝鮮王室を一家門に格を下げるために付けたものだと言われている。また昌徳宮の塀と昌慶宮の塀の間の道路を過ぎれば、韓国紹介に頻繁に登場する芙蓉亭と宙合楼など、観光名所・後苑がある。
 写真のこの門を入ると、左右に12対の石の塔。
 官位の順に配列したようだ。
 第1品、準1品、第2品、準2品、以下には”準”位は無く、第3品以下12の位に順に配列したらしい。

 官位12回は、大和の国も中国を倣って取り入れている。



 衛兵の交代時刻らしい。さて、その後
 更に中に入り、細部に渡って見学した。

 しかし、デジカメのフラッシュカード。残りが少なくなってきた。





 ここは、[思政殿]

 ”政”とは、まつりごとのこと。
 政治は、派閥遊びではない。

その後、隣にある「国立民族博物館」ソウル市鐘路区世宗路1を見学。ここは
一般 1000W 25 〜 64歳
割引  500W 19 〜 24歳
無料 18歳以下65歳以上の韓国在住者
障害者及びその同行保護者



韓国本場のキムチ作りを行って、レシピを入手。えっへん!写真は、卒業証書。
 キムチは韓国独特の発酵食品。いわゆるSlow Foods だ。
 文字通り”手塩にかけるように”一枚一枚の白菜の葉の内に、ミックスした具を挟み込み。外葉で包み込むように・・。そして、4〜5℃に保って漬け込む。
 ”爆弾”の味と、この証書が思い出深い。
最後まで、お付き合い下さいまして、心より感謝です。

 
The End 
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