日本人のルーツを探る

編集・管理人: 本 田 哲 康


      
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ミトコンドリアDNAを辿る・・ミトコンドリアDNAのタイプと移動経路 
                                         ’04年8月23日・・その後、逐次更新
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はじめに
 1.
現人類のルーツ・・それはアフリカのブッシュマンであった!
   ”ブッシュマン”!!それが、私たちの祖先である。
  我々は、ジャワ原人の子孫でもない。北京原人の子孫でもない。
  皆、世界中の人々は、共通の親の子孫である。
  ネアンデルタール人は、3万年前に絶滅した。
  彼らの特徴については諸説があり、まだまだ今後の調査が興味深いところだ。
  しかし、真実はすべて、必ず、いつか明かとなる。
  そういうものだ!

1,800万年前にテナガザルからオランウータン分岐
1,400万年前にオランウータンからゴリラ分岐
 900万年前にゴリラからチンパンジー分岐('09年放映)
 700万年前にチンパンジーから人類分岐(「Newton」'08.6)
ヨーロッパ (クロマニオン人)→フランス南部「ロッコ・ソルシェ遺跡の壁面彫刻:1万4千〜1万5千年前。
ブッシュマン
       
アフリカ(直系の子孫はサン族)
アジア アメリカ
 ☆ 遺跡の発掘が重ねられるたびに、新しい事実が判明する。
        それは、時間の経過と共に・・と、換言しても良い。楽しく見守りたい。
種  類 時 期 特徴など
@ ホモ・ハビリス およそ     
240〜170万年前
 東アフリカに生息。180万年前の地層から発見。
 脳600〜700cc。体重30〜60Kg。
 彼らは打製石器を初めて使用した。
 狩りは出来ず、死んだ腐肉を食していたと思われる。→ やがて、原人(ホモ・エレクトス)へと進化する。
☆ ボイセイ猿人 東アフリカに生息。(220〜130万年前)
 ボイセイ猿人も、この頃(約100万年間)共存していた。
 彼らは、あごが特殊化していることから堅い種子や地下茎を食していたと推測できる。道具は使用せず。
 やがて、環境の変化に勝てず、約100万年前に絶滅する。
 身長は1.2〜1.5m。体重40〜70Kg。
A ホモ・エレクトス(原人) 180〜30万年前  160万年前の地層から発見された。
 野火や落雷を利用して火を利用していたらしい。
 栄養摂取量の増加により、ホモ・ハビリスよりも脳が大きくなり歯が小さくなる等の特徴を示す。
 彼らの使用した高度な石器を発明。言葉を持っていたらしいと思わせる喉の構造であった。
 
その後、ジャワ原人・北京原人で知られるように、東アジアまで進出。
B ジャワ原人  100万年以上前には、インドネシア諸島に原人が住んでいた。地球は氷河期に入り、海面が130mも低かったため、移動が可能になったのだ。(ジャワ原人)
C 古代ホモ・サピエンス 60〜4万年前
D ネアンデルタール人 60〜3万年前  祖先は、ヨーロッパで発見された、ホモ・ハイデルベルゲンシス(旧人)。
E 現代ホモ・サピエンス 16万年前〜
アボリジニ ○ オーストラリアへ異動した。 (現:アボリジニ)
 壁画は、2.8万年前のもの。
 海に隔てられた島へどのようにわたったのか?を知ることが出来る。
そのころの動物 その特徴
☆ 袋ライオン

体重 70〜100kg
 50万年前のオーストラリアには、袋ライオンが生息していた。(3,000年前に絶滅)
 袋ライオンには、牙が無く齧歯類のように、下前歯は上の前歯に研がれて、肉食も出来た。
 尖った横長の奥歯で肉を切り裂いた。後ろ足の親指の形状から、ライオンのように素早く走ることは出来なかったようである。
 また、鎖骨がない。しかし、後ろ足の親指が外側に開く形状から、ヒョウの様に木登りは出来たようだ。
 後ろ足で立ち上がるときに、尾で体重を支えた。
 化石から推測すると、有袋類の特徴である:袋骨(腸骨の前に一対)を持っていた。
☆ プロコプトドン

 (現カンガルーの祖先)
 50万年前のオーストラリアには、プロコプトドン(現カンガルーの祖先)が棲息していた。 体長は3m(現カンガルーの約2倍である)
 しかし、数万年前に絶滅した。
☆ジャイアン・ウォンバット ウォンバットの祖先

 体重300kg。
F 北京原人  北京原人は、50万年前、アジアに住んでいた。<呉新智(ウーシンチー)古人類学者>
        1921年に、頭骨を3個発見した。
 また、1931年11月31日、40体の化石と、動物の化石が発見された。
 これによってその頃の生活ぶりが推測可能になった。
 彼らは、小さな群れを作り移動や生活を行っていたようである。
 自然や気候にに左右されることが多かった。
 槍を使い落雷などの火を住処に持ち帰っていたと思われる。 が、しかし、自分で火を起こすことはできなかったらしい。日夜大切に燃やし続けた。
 「北京原人は、現代人と類人猿との中間に位置する存在。」・・・と、周国興氏は言う。
(北京自然博物館)
 50万年前の祖先の生活の後に、やがて、石器時代となる。 「ガボンの地」である。

☆ 20万年前(14〜29万年前:「Newton」誌)の現人類
        :人間の誕生と移動について
○  人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前に移動が始まった。
 (ある集団はヨーロッパ  大陸へ、或いは東南アジア大陸へ・・・・・・・、)
                 
・・・・ 我々が旅行好きなのは遠い遺伝子の記憶であろうか?!

 
 2003年6月の新聞報道によると・・
    16万〜15.4万年前の人骨:大人と子供の化石が発見された。脳容積は、1450cc程度。
   この頭骨に、石器で削った痕跡が認められた。
     ・・・・:儀式に頭骨が使用したのであろうか?・・・・・と、解説された。
   場所は、アフリカ大陸・エチオピアヘルト村であった。
 さて、
(1)  アフリカの直系 ・・・考古学者 ディビット・ロバーツ教授は、 13歳のeveの足跡化石と共に人骨化石を発見した。
 それは、11万7千年前のものであった。海辺で暮らす人々のようであった。バイソンや大型草食獣を狩りをして生活をする人々のようであった。
           
  ○ サン族直系の祖先:現在、カラハリ砂漠に4,500人住んでいる。サン族の直系の祖先だ。
(2)  ”イヴ”(現人類の最初の母親)の子孫は、カラハリ砂漠に住むサン族を始め、皆、多くの岩絵を残している。その数は2,000カ所以上もある。
 彼らは、ネアンデルタール人よりも前頭葉が発達し、イマジネーションが優れている。・・・・・と言う。
 岩絵には、手形が残るのが特徴である。ここの手形は、赤い染料を手のひらに塗って押し当てたものだ。
(「アクティブハンド」と言う。)
(3)  その後、7〜8億年(今、6億年の説が有力となった)前に地球は氷河期となる。
 そこで、我らの祖先は水と食料を求めてアフリカを出た。
 4〜5万年前にはヨーロッパへ・・・ペルシュ・メルリ洞窟
(ピレネー山脈)には、2億6千年前の壁画が、残されている・・。 
 ここの手形は、岩に手のひらを押しつけておいて、炭を口に含んで上から吹き付ける”ネガティブハンド ”である。 

☆ラスコー洞窟では ・・
 1万7千年前の壁画が発見された。・・・・・モンゴルの馬や、居たはずのない動物の絵が描かれている。
 シャーマンによって幻覚状態(いずれの洞窟画も共通している。)
で描かれたもののようであった。
 シャーマンによって、別世界との対話があったと推測される。→ 彼らは、Imaginationが豊かな人類であった。
  Imagination(イマジネーション・創造性)が、狩りやその道具を創る力となったはずである。
注:  ミトコンドリアDNAは、1万年の間人類に通婚が無ければ、それは個有の形となる。
 変化の数が多いほど多く分岐したと考えられる。
 
肌の色は2,000年間も経過すれば、その場所の環境に合わせてすっかり変化するといわれている。
 白色人種・黄色人種・黒人・・・?
 永い人類の歴史からすれば、驚くほどの違いではないのである。
           
2. ところで、日本人はどのようにして来たのであろうか?
今、日本人のミトコンドリアDNAを分類すると、16群に分けることが出来るそうです。
・・・・・ということは、日本人の起源をなす母親は16人居たと言うことです('07年修正)。
もっと、先を辿っていきますと、元は、アフリカに突き当たります。最初の母親はアフリカの一人の母親であったそうです。突然変異で塩基の並びが変化し様々なタイプが生まれる。(数百世代で一つの変異がおこる)いろいろな分け方もあるが、今、世界中で約80種類。
 卵子と精子が受精した瞬間に、精子の持っているミトコンドリアは、卵子の中で消えて無くなってしまいます。従って、女性が代々とミトコンドリアDNAを受け継いで行くのだそうです。
 (子供は、女子を産んで、その女の子が子供を産んでも、それが女の子でないと、次の世代にはミトコンドリアDNAは伝わりません。)
                
 ところで、現在の日本人のミトコンドリアDNAのタイプは、16である。
 2007年11月に16タイプと発表された。
2008年10月放映 「サイエンスZERO]より要約 アフリカ 出アフリカ
 リング状のミトコンドリアのDNAは、母親から子供に受け継がれる。
その時に突然変異を起こして入れ替わる塩基がある。
 それを分析すれば、遺伝的に近いか遠いかが分かる。
塩基 A. アデニン  T.チミン  G.グアニン  C.シトシン
 この4種類の塩基が30億の対になっている。この配列を解読する作業が進んでいる。
 アフリカで誕生したホモサピエンスは、やがて東に、また、南に移動。
 その後、紅海を渡ってアラビア半島に進出(出アフリカ)。
 7〜6万年前、人類は紅海の南端の狭い部分を渡ってアラビア半島に渡った。
 出アフリカは、数回にわたって試みられた。後のルートが、大陸の沿岸部に沿って移動していることから、アフリカの沿岸部で海産物を食していた人々だと思われる。
 少ないグループで150人ほど、多いグループでは2,000人程と推測できる。
 (数百人から数千人か?)
注:
 これまでは、サハラ砂漠を縦断し中東へ北上したという説が有力だった。
しかし、そのルートの先には証拠となる遺跡が無く、この旅は失敗に終わったのではないかという。
 その後、東に進み、インド ・東南アジアへ・・・。そして、5万年前にはオーストラリアへ到達していた。
 東アジアへ向かった流れは二つに分かれ、東南アジアから北上するルート、インドの手前から中央アジアへ北上し後世のシルクロードとして重要な交易路になる。
 これらのルートの先に、日本列島があったのだ。
 およそ4万年前に、インドの手前から中央アジアへ北上して、しばらくして、これらの人々から別れた人々は、一部がヨーロッパ大陸に北上した。
 その後、ユーラシア大陸の東では、アメリカ大陸を目指す人々が現れた。この頃は間氷期であったので、ベーリング海は「ベーリング陸橋:ベリンシア」といわれるほど、氷の道ができていた。およそ2万年前にここに至った。この氷河に遮られてここ「ベーリング陸橋:ベリンシア」で数千年間過ごしたと思われる。
 1万数千年前に、氷河が溶けるに従ってアメリカ大陸に進出。やがて南アメリカ南端に到達し、同時に内陸部にも入ったと考えられる。
 台湾(およそ6,000年前)→フィリピン諸島→パプアニューギニア→フィジー諸島・メラネシア(3,000年前)→ハワイ(1,500年前)→イースター島:ハワイの壁画に示された船から、帆かけの双胴船を使ったと思われる。大きなものでおよそ30m。
注: 京都大学大学院 自然人類学者 片山一道 教授
 「決して、彼らは漂流したのではない。星と風と海と渡り鳥たちから学んで航海をしたに違いない。」という。
 積み荷は、タロイモ・バナナ・椰子の実などは、台湾やフィリピンなどアジア諸国で栽培したものであった。農耕によって、人々は初めて大海原を渡ることが可能となったのである。
 農耕は、およそ1万年前から世界の各地で始まった。一番早かったのは、メソポタミア。ここの作物の中心は小麦であった。少し遅れて、今の中国南部で稲や雑穀の栽培が行われた。農村ができ、人口は急激に増大したのであった。人々は新たな土地を求めて移動を始めたと思われる。移動は加速された。
’8.10.3 放映  「サイエンスZERO」より要約
D

N

A































Lo L1 L2

























L3

ここで
紅海を
渡る。


M


6







沿







E
M9
M42
M10
M1
M2
M3
M5
M25
M22
M36
M8 Z
C C4 C4a
C4b
D D4 D1
D2
D4a
D4b
D5
M7 M7a
M7b M7c
M21
G G1
G2
Q Q1
Q2
Q3
M29
L2d M28
L2a N



A A1
L2b W W1
L2c W3
N1 N1b
I I1
I2
X N5
R R1
R7
R8
R11
R13
R9 F F1
F4
F2
B B4a
B4b
B2
B5
J R2
U U1
U8 K
HV V
H
N9
Nから5万年前
Y
N9a
N9b
下表:系統樹: L0・L1・L2は、アフリカの人だけで占められている。      
 アフリカ以外の人々:
アジア・ヨーロッパの人々は、中央水色(L3)の中の右二つの枝にすべて含まれる。
上は、世界の3,000人のmt−DNAを調べた結果の分岐図である。

現日本人のDNAタイプとその起源   国立博物館 人類研究部主幹 篠田謙一氏 (ご紹介時点には、佐賀医科大学 助教授)
タイプ 人口
タイプの起源と特徴など
D 34  6万年前にバイカル湖畔に定着し住んでいた人々だ。
 このタイプはベーリング海を渡ってアメリカにも渡った。アメリカ先住民
(ネイティブアメリカン)が、このタイプ。 日本へは朝鮮半島を経て渡った。 耐寒性あり
 後にこれは、
D4D5に細分された。 このタイプの人類もベーリング海を渡りアメリカ大陸に渡って、タイプ:Aの人びとの住んでいた場所にも赴いて、インカ帝国を築いた。
B 15  6万年前に定着。環太平洋に移動を開始後にこれは、B4B5に細分された。
F    4〜5万年前やせ形のタイプ。 朝鮮半島を経て日本にも・・。 
M7 15  4万年前に定着した中国南西部から移動を始めた人々。
 多くはフィリピン方面に行ったが、一部の人々は、やはり
朝鮮半島を経て、日本にやってきた。
 2万4千年前にこれはM7a日本にのみ存在するタイプM7b及びM7cに細分された。

 日本にしか居ないグループ。沖縄・九州に多く日本の南から北へと広がったと考えられる。
 
M7aは、日本以外にはこのタイプは居ないので、他の国からこのグループを捜すことはできない。
 このタイプは現代日本人と縄文人には共通して存在。

 しかし、弥生人にはない。
M9  3.4  4万年前にヒマラヤ山の民として定着。 中央・東アジア 朝鮮半島を経て日本にも・・。
 
2007年11月放映時に、タイプ名M10に変わったか?!
M10  2007年11月放映時に追加された。
C2  3.2  3〜4万年前に定着。 フィンランドへも及びラップ人にも。朝鮮半島を経て日本にも・・。
2007年11月放映時に、タイプ名Cに変わったか?!
G  7.5  3万年前に定着。
 酷寒のシベリアから移動開始。
 アジア人に最も多い。途中でY型に変わり樺太を経て日本に・・。アイヌの祖先か。
A  6   2〜3万年前に定着。北米人(ネイティブアメリカン)の祖先となる。朝鮮半島を経て日本に・・。
 このタイプの人類は、ベーリング海を渡ってアメリカ大陸に渡り、後にインカ帝国前の住民でもあった。
N9  7   2〜3万年前に定着。これらの中では新しい日本人。「渡来人」ともよばれる。
 後にこれは
N9aN9bに細分された。
 N9aはアジア中のどこにも極めて少ないグループで、ルートを極めにくい。似たようなグループは北に多いので、北から渡ってきたことは推定できる。
 縄文人にはなく現代日本人と弥生人に共通して存在。
Z  2007年11月放映時に追加された。
2007年11月3日放映
全世界に35タイプ。日本には9タイプ。 全世界に80タイプ。日本には16タイプという。
 国立科学博物館 人類研究部研究主幹 篠田謙一氏の解説によって、DNAミトコンドリアのタイプが更に精密に細かく分類されたことを知ることとなった。
 日々進歩する科学の成果だ。タイプの名前は、アルファベットのA〜Zまで・・・。それでは足りなくなって、更に、a・b・cが付けられて番号も付けられたのである。。

核に周辺にあるミトコンドリア

ミトコンドリア拡大
タイプ B4 B5 C D4 D5 F G
Bより細分 30
5%
M7a M7b M7c M8a M10 N9a N9b Z
2万4千年前
M7より細分
N9より細分

ミトコンドリア電子顕微鏡図
注:ミトコンドリア電子顕微鏡図・・・・
2009年9月、蛍光タンパク質の応用によって、ミトコンドリアの姿が判明した。左上の顕微鏡写真図は、ミトコンドリアの先端部分の横断面図であることが判った。ミトコンドリアは、筋肉・心臓・膵臓など器官の種類によって姿は異なるが、扁平で想像以上に長いことが判った。(2009年9月)
 N・M は、20万年前にアフリカで新人時代にいたタイプ。6〜7万年前に分かれたタイプ。
 N・Mが分技したその直後にアフリカから北上し、インド周辺でNからRタイプが誕生。
 この三つから数多くのグループは広まっていくことになる。
   5万年前にはアジアに達し、やがてはオーストラリアに至るものもいた。
    
☆ B・Fのグループが、その後5万年前東南アジアで生まれることになる。
 B・F が生まれる頃、一行は北に向かって進むものも現れた。
 Dタイプが生まれる一方。この中には日本にはじめてやってきたグループがいたとも考えられている。
 Rは、ヨーロッパにも向かった。
 これが中近東でUグループを産み、これからその後多くのヨーロッパ人が分かれていくことになる。
 また、中近東でシベリアに向けた移動も起こり、バイカル湖ほとりでAタイプが誕生した。
 Aグループは、北回りのルートで、日本にもやってきたと思われる。
 Aは、当時陸続きだったベーリング海を渡って北アメリカへ、そして、1,000年ほどでアメリカ大陸の南端にまで達した。
 最後に、ある集団(Fの末裔)は3,000年前に太平洋に乗り出し、1,000年掛けてハワイやニュージランド・ポリネシアへと達した。
1,500年前に移動は終わることになる。
 インカ帝国(ペルー・マチュピチュ)の人びと、がB4タイプ。
 2,000年以上前にはAタイプが多かったのだが、1,000〜2,000年前の間にB4タイプの方が多くなった。インカの時代以降B4タイプが急増しAタイプは減少していった。
 黄金の帝国インカを担ってきたのはD4のグループだと言うことがわかってきた。
6〜7万年前。氷河期の凍った紅海を渡る(注) 紅海を渡った直後にR誕生。 各写真の赤記号が日本人を構成するタイプ。(注2)








1997年エチオピアのアファール低地の遺跡から
16万年前の地層から化石が発見された。

 それは、誕生直後と考えられるホモサピエンスの
頭の骨であった。この骨格を元に復元した、今分かっているもっとも古い祖先の姿である。











































☆参考:「THE WALKING PEOPLE 一万年の旅路」ネイティブアメリカンの口承史
          ※ 一万年間語り継がれたモンゴロイドの大いなる旅路 ※
       ポーラ・アンダーウッド 星川淳 訳 翔泳社より 抜粋 (180ページ〜)
 ネイティブアメリカンの口承史の価値について、科学的に疑念を抱く方もいるかもしれない。
 しかし、私はこれを尊重したいと思っている。
 シュリーマンが古代遺跡を発掘したのは、彼が伝承を信じたからである。
 聖書に書かれた「出エジプト記」も、『そんなことはあり得ない!』と、大方の人は思っていたが、
現代科学がそれが真実であることを実証した。私は”人類の知恵”を信じている。
 この中に述べられていることの多くが、関連するその他の歴史書と符合しておもしろい。
 ”はじまりの歌”が、歌われるに至るまでのいきさつ ・・
 彼らが北米大陸にまで達したときに、苦難の末安住の地かと思われる場所にたどり着いた。
 しかし、そこには先住民たちが居た。彼らは海上を移動してハワイを経てやってきた、カヌーを上手に扱う人々<水を渡る民>であった。
 しばらくの年数、彼らの近く<大海のほとり>に居住したが親しくなれないまま時が過ぎて、ある日、突然のように別な地に立ち退くように言われた。
 行き先を思いあぐねたが、どの方向も先行きの難儀な旅になりそうであった。そこで、老人と子供たちだけは、そのまま留まることを依願して、それが受け入れられた。
 さて、旅立ちに先立って、共に旅の出来ない老人が、去りゆく一族たちに口承をした。
 それは、彼らがベーリング海を渡ってからおよそ78年後のことだった。86才の老婆が語る話は、三日間かかって、一族に口承された。
 それは、これまでに聴いたことのない話であった。
 旅立たなければならない人々には、初めて聴く話が三つあった。
 ここに、誠に興味深いその話の一部をご紹介する。

                 LINK モンゴロイドの大いなる旅路
 ・・・・
管理人(以後、下の記述の中に【】内に補足したのは、本の中の注や補足から、管理人の推測したもの) 
「はじまりの歌」・・
 さて言っておくが、わが一族のはじまりは<大海のほとり>の里よりはるか昔に遡る。それはあまりにも遠い昔で、だれ一人時を数えることも出来ないほど。であるにもかかわらず、われらのあいだには次のような物語が伝えられてきた。
 遠い昔、遠い昔、遠い昔・・・・・わが一族は緩やかな群れをつくって暮らし、太陽がたまにしか見えないほどの背の高い木々のあいだを縫って日々を過ごしていた。それは呑気な時代。手を伸ばしさえすれば何かしら熟れた果実に恵まれる時代であった。
 それはまた、滝をなして降り注ぐ雨が木の葉や枝のつけ根にたまり、大地からばかりか木々からも水を求められる時代であった。木々の下の地面はしばしばぬかるんで危険に満ちていたから。
【アフリカに大地溝帯が誕生する前の話のようだ】
 こうして、一族は時を超える時のあいだ心安らかに暮らしていたがやがて世界が変わり始めた。木のない土地が近づいてきて、大きな木々が大地に倒れ、かわりに新しい木が生えなくなったという知らせが伝わった。大地にしっかりと根ざし、長い長いあいだ揺るぎなくそびえていた巨木たちが、大地とのつながりを失って一つ、また一つと、退く森の方へ倒れはじめたのだ。
【乾燥が押し寄せて大木が次々と枯死して倒れた。時間の経過も推し量られる。森の反対側の根が枯れて浮き上がって、木々は森の方向に倒れた。アフリカに大地溝帯が誕生してからの変化であろう。】
 このため、それまでわれらの住みかであった木々がわれらを大いに脅かすようになった。
【樹上には住めない。また、木々のあいだにも安住できない】そしてこのありさまを見た者たちは、草地へ歩み出すことを学んだ。だが、そこでの暮らしは困難をきわめたため、多くの者は森に住み続け、最後には木々たち自身から振り落とされるはめになった。

 いっぽう新しいやり方を楽々と身につけた者たちは、一族にすばらしい贈り物をもたらした。それは果実ではないけれども栄養になるものを見つけ、水野探し方をおぼえて、生きていく新たな方法を学んだ者たちであった。というのも、雨の降る回数はますます減り、大地のあちこちに水たまりをつくりはしても、木々の上にたまることなど珍しくなったから。
 そこで、一族のある者たちは大岩や丘などの高い場所を見つけ、ぐるりと遠くを見渡しては、水野ありかを示す大きな獣たちの群れを探すのであった。そしてわれらは、この仕事に一番巧みな者たちを重んずるようになったのだ。【視力の良い者が、一番巧みだったのであろうか?モンゴルでは、視力9.0の人がいるそうな?!】
 さて、わが一族の習性として、ゆるやかな群れで、ほぼ北の方角へ移動していくことになった。
 (中略・・・移動しながら、水も食べ物も不測に事態に備えて蓄えることを学ぶ。飲める水と飲めない水のあることを学ぶ。やがて、<大海のほとり>にいたる。)
 さて、ものごとの習いで、この<大海のほとり>に住む一族の数がふえはじめ、暮らしは前ほど楽ではなくなった。ただし、大海の岸ぞいに北と南に旅した者たちが、あちこちに新しい村を作ってはいた。すでに大海の性質と生きる糧を得る可能性について理解がゆきとどいていたため、そうした移住はたやすいことだった。
 それにしても、一族の数は望ましくないほどふえていた。なんらかの答えを探し、見つけねばならないことは、みなよくわかっていた。
   (中略・・一族でいろいろと考えた末、次のような実験をした。)

 さて、大海のほとりの生活は、このほかにも絶えざる学びをもたらした。
 たとえば、一族は水の中を動く技をめきめきと磨き、水面の下のたくさんの場所を知識に加えていった。というのも、一番簡単に食べられる小さな生き物たちは、さまざまな方法で水中の岩の表面にしがみつくことが多かったし、もっと動きまわるほかの生き物も、砂や岩の中に隠れることが少なくなかったからである。そのため、こうした生き物を探すには、しばらく【口承の「しばらく」は、随分と長い時間の経過を言う。この間に浮力によって、二本足歩行はより容易となり、体型もヒトらしくなったかも?!】水中で過ごさなければならなかった。
 さらに、水中での採集は次のようにするのが一番だった。
 まず、手と足を使って水面からなるべく下のほうまで潜る。泳いだりあわてて逃げたりするものたちを探すのに適した場所を見つけたら、じっと止まって待つ。やがて、何かが自分なりの食べ物探しを再開するはずなので、こちらに向かって歩くか泳いでくる手ごろな獲物が見つかるだろう。そうしたら、その生き物をうまく捕まえて連れて帰ればいいのである。

 さて、こうした学びのかたわら、もう一つのことが起こりはじめた。
 ときおり<大いなる泳ぎ手>【イルカか?】がやってきたのだが、彼らはわれらと同じくらいの大きさか、ときにはもっと大きな体をしていた。得体が知れなかったので、最初のうち、われらは彼らを疎ましく思った。けれども親近感が強まるにつれ、心配はいらないことがわかった。
 むしろ、これらの生き物はわれらと一緒に泳ぐことが大好きらしく、われらも彼らとともに泳ぐことを心がけるようになり、大海
(おおうみ)の性質をいくつか教わった。われらが大海の深みについて、また幼いものたちに泳ぎを教える方法について学んだのは、この生き物からだったのだ。
  
【この時代だろうか? 体毛がそぎ落とされて、今の人類のような状態になったのは・・・・?しかし、頭髪は伸びて(猿人は短かいままだった。)、子供がそれにしがみついて、溺れることなく親子が共に生活したのであろう。】
 彼らとわれらでは体の形がちがうため、彼らそっくりに動いたり泳いだりすることはできなかったが、彼らのすることの多くはわれらにもできた。われらは彼らから、泳ぎのあいだなるべく長く息を止め、少しずつ楽にこの状態をしのぐ方法を学んだ。
 彼らの意思疎通の形式には、どこかわれらを驚嘆させるものがあった。彼らどうしが理解し合うとき、そのやり方がわれらにはよくわからないので、われらは自分たちが彼らにどう映るのかを思いめぐらすようになった。われらに意思疎通は主に空中で行われるのに対して、彼らは水中でそれをする。だが彼らとわれらも、もっと不器用ではあるにせよ、互いに少しは通じ合えるのではなかろうか、とーー。
 こうした交流を通じ、われらはそれまで考えられなかったようなやり方で自分たち自身を理解しはじめた。そしてわれらは、これら<大いなる泳ぎ手>とわれらが互いを生きる糧として求めるのではなく、仲間として、また学びの道ずれとして求めていることに気づいた。
 われらはこれに大きな意味を見いだし、このような学びの大切さを心にとどめようと誓った。
 「われらは彼らにどう映るだろう」という問いを、つねに問い続けようと。

 さて、こうしたさまざまな学びや暮らしぶりの変化があり、さらには一族の数を野放しにふやさない方法を身につけたにもかかわらず、多くの村の<中つ地>となった砂地を歩く足は、やはりふえすぎていることがわかった。
 そんななかでときおり、一族の中から生まれた集団が大海から内陸に向かい、山地を越えて大地の未知の部分に旅立っていくことがあった。時がたつと、自然に一つ、二つと出発する集団が現れたのだ。
 ところが最後に、新しいことが起こった。そういう集団が一つ生まれ、たいそう後ろ髪を引かれながらも、山地を越えて未知の明日へ旅立つことにしたのである。そして、これだけではそれまでとは変わらないが、このときは次のようなちがいがあった。 
【上の注2の図式か?】
 この新しい集団にはわれらの祖先が含まれていて、それ以来今日まで、われらのだれ一人として、二度とふたたびその<中つ地>を見ることはなかったのだ。
Uタイプがヨーロッパ人の始まりらしい。 各写真の赤記号が日本人を構成するタイプ。
☆ 移動のルート ☆(クリックすると大きくなります)

3 日本人のルーツは ??
          
       祖先は、3つに大別できる!
 ・・・・「日本人遙かな旅」 NHK より
 人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前にある集団はヨーロッパ大陸へ、或いは東南アジア大陸へと移動を始めた。
  @ シベリアにはぐくまれた知恵
  A 大海原を越えた南の海の民
  B 中国大陸からイネを携えそして日本へ
従って、
 アジアの様々な顔を持つ日本人となった。 :複雑に混じり合うDNA。それが日本人の姿である。
 世界平和を願わずにはいられない。
 
元は、皆、一人の母親なのだから!!
 (1) 一つは、シベリアから・・ 縄文人の歯で検証された
○ 縄文人29体の調査 ○

 佐賀医科大学は、縄文人29体の骨(縄文人の歯)からDNAから検出してみた。
       ・・・・結果・・・
 縄文人29体の骨は、人それぞれの固有の分子構造を持っていたが、これを国立遺伝学研究所に所蔵される世界各国132の民族500万件のデータから照合・調査した。

それらは:
 韓国・台湾・タイが各々一名で・・・・

 他27人はシベリアの現
ブリアート人と一致した。
                 
 驚くではないか?!

 ここで出土した縄文人の29体の内、27体がブリアート人と一致したのだ。
 祖先の多くがシベリアからやってきたことを示しているのだ。


 このころは・・・・・
☆ 2〜3万年前は・・・ 海面は100m下がっていた。
  従って、この時期には、北海道とサハリンとが直結されていた。
 この頃の気候は、氷河期だった。日本列島は、今より10℃程低い温度であった。
 東京の辺りは針葉樹点在する平原であった。
  
☆ 日本列島には、これ以前に人類の住んだ確実な痕跡がない。  縄文人は、氷河期にやってきた人類の末裔である
  @ 現在のブリアート共和国人 

  
マクソホン村(バイカル湖周辺)の住民は、古くから遊牧生活をしてきた先住民である。
 不思議なほど、日本人の顔とよく似ている。
 このブリアート共和国人の、居住地近くで、
マリタ遺跡(23000年前のもの)を、イルクーツク大学のG・メドべーシェフ教授らが1928年に発掘した。
       →     
   
 
☆ この遺跡には、石器の材料と思われる、くさび形石核(材料)があった
 そして、
 これと同じ型の石器が、北海道嶋木遺跡からも出土〈札幌大学(考古学)木村英明教授〉したのだ。
 これによってDNA以外にも、人類の繋がりの証拠を発見したのだ。

  シベリア
(バイカル湖周辺)が、日本人の源郷土であると言うことが、アキラかとなった。 
 この遺跡には、
 7戸の家があった。それは40人ほどの集落であった。
 家は、木の骨組でパオに似たテント状の構造であった。

 トナカイの角や骨が出土した。この毛皮は活用されたであろうと、推測される。

 また、
 首飾り(動物の骨を細工)
 シベリア特有の石器 石のナイフ等が発見された。

 氷河期のシベリアに人類が生活した証拠である。

 また、くさび形石核(材料)があった。
○ 人類は、20万年前 アフリカ大陸で誕生し、その後、10万年前にある集団はヨーロッパ大陸へ、
  或いは東南アジア大陸へ、移動が始まった。

 このときに、この逆に極寒のシベリアへ移動する集団もあったことを、マリタ遺跡(23000年前のもの)のマリタ集落によって知ることになる。
            
○ 骨や土中の花粉などで、マリタ遺跡分析の結果
 マリタ遺跡(23000年前のもの)は、骨や土中の花粉分析の結果、トナカイやマンモスを食べていたことが分かった。
あ・ら・かると
☆ 女優 天海祐希の持つミトコンドリアDNAのタイプが、千葉県下太田遺跡の人骨と同じであった。 !
ミトコンドリアDNA



国立遺伝学研究所
  斉藤成也教授
◇ 千葉県茂原市 下太田遺跡4500〜2500年前の遺跡:
   縄文時代中期から晩期にかけての遺跡

  ミトコンドリアDNAの、タイプ8が  24体中8体存在した。
   このタイプは、中国やロシアなど東ユーラシアに多い。
 また、
  中国・雲南省のチベット族に一人いた。  3万年前の母親は同じだった。
  女優 天海祐希の1200世代前の母親が同じ人であったということである。

ロシア医学アカデミー :バイカル湖周辺には15人中3名存在するタイプ という。
              (ブリアート博物館に発掘品が保存されている。)
            

◇ 1万年前〜5万年前に遡ると、日本人は9人の母から生まれたということになる。

  ゲノムDNAとは異なって、ミトコンドリアDNAは、母親からしか子孫には伝わらない。
気候は ・・・・短い夏の寒い気候であった。当時の数百種類の植物と動物が、検証された。  









食べ物  当時の様子は以下のとおりであった。
 食べ物:数百種類の植物と動物。マンモス(3.5m重さ6t) 洞穴ライオン 毛サイなど、絶滅した多様な動物が生息していた。
 マンモスの骨にマンモスの絵画があった。・・。また、マンモスの牙に防寒頭巾をかぶる人間の像が描かれていた。
 マンモス(3.5m6t)の牙は、2mもあり、かなりどう猛であったと思われる。
 永久凍土にマンモスの子供の遺体を発見した。この胃に大量の泥が詰まっていたので、溺れて死んだものである。
 これは、当時のヒトが、マンモスを湖に追い込んで狩りをしたことが想像できる。
 



  E・ギーリャ博士 物質文化史研究所(実験考古学)は、マンモスの化石の骨を貫いている槍を発見した。(この槍は特殊な構造をしていた。)
 また、動物の骨を削って、側面に埋め込まれた細石刃も見つかっており、極めて独特な道具であったと思われる。これは、「替え刃式カミソリ」の様であった。
 尖った骨の道具を使って、押圧薄利によって細石刃作成し、骨と細石刃の二つの異なる素材を併せた道具といえる。技術革新が認められて、当時のヒトの知能の発達状態を知ることができた。

狩りの
方法
 狩りの方法は? ・・ 大勢で威嚇して、集団で水辺へ追い込み数時間、あるいは、何日もかけて狩ると言ったものであったらしい。これによって、彼らの間にはコミニュケーション能力が育成されたと思われる。 狩りをして、これを食べて永い冬を乗り越えたと、推測できる。
 だが、マリタ遺跡には、2万年前に異変が起きたようだ。ここで、生活の痕跡は途絶えている。
Aオボンキ遺跡発見
 サハリンエニセイ川河口付近で

 
 ここで細石刃を発見。
 エニセイ川河口付近には、氷河期のまま溶けない50m厚さの氷が存在している。
この氷中の酸素によって、氷河期の空気を分析して、過去の気温変化を知る。
調査の結果、
 2万年前、地球上でもっとも寒い最寒冷期を迎えていた。平均気温10℃下がる。植物のまったく生えない極地砂漠であった。そこで、動物も移動。食物の採取できない寒冷の地から移動を余儀なくされたと思われる。
 ベーリング海峡を経てアメリカへ、或いは中国方面へ、また、ある集団はサハリンから日本列島へと、移動したと思われる。
B 柏台T遺跡 北海道千歳市 柏台T遺跡:ここに2万年前のたき火の跡。
 そこからオボンキ遺跡と同じ 細石刃を発見した。 マンモスの骨も発見
 本州へ移動したことが判明した。2万年前をピークに、彼らは移動。
 この時、氷河期の最寒冷期(ー30℃)であった。
 津軽海峡は、水深があったが海峡が凍る時に本州への移動は可能であった。また、対馬海峡を経由しての移動もあった。
 この頃の日本列島は、富士山は活発な活動中で、ナウマン象 ヘラジカ バイソン 様々な大型動物が居た。
○ 新たな試練
 その後、急激な温暖化が始まり、50年間に7℃気温が上昇。現代のような形になる。
 それとともに、草原が減少、森林化し、大型動物は居なくなり、ブナ・ナラなどの広葉樹に変わった。
 人類の窮地がやってきた。食料が確保困難となった。
 C 帝釈峡遺跡
  (広島県油木町)
 急激な森林化による動物の生息状況の変化(帝釈峡遺跡:広島県油木町)
 愛知教育大学(動物学)河村善也教授等によって、広島県油木町で、化石が発掘された。
 大型動物の激減が認められる。獲物は鹿・イノシシ・狸・ネズミに変わる。
 同時に、大型動物を狩り尽くして、食糧不足となった。
 新たな狩りの道具を作り、長さ2cmの矢尻:弓・槍などを使って。動きの早い小動物をとらえる事になる。また、同時に新たな食料探しを行う。
 ドングリ(成分:でんぷん質に富む。しかし、タンニンが多く、渋いので食用に適さない。が、栄養価は米に匹敵。)を、食べる方法を考え出した。
 D
 百人町三丁目遺跡
   (新宿)
 百人町三丁目遺跡(新宿):ここの遺跡には、数十点の土器の破片(1万2千年前)が発掘された。
 煮炊きの道具にしたと思われる。この土器によって、エジプト・メソポタミヤより数千年前から土器を使用していたことが判明した。我が祖先達は、土器によって、食糧危機を乗り越えた。
〈参考: 世界最古の土器の破片土器の起源:1万3千年前 シベリア・アムール川の流域 魚の脂貯蔵に使用説が有力である〉
☆ 土器は、日本列島に持ち込まれてからその形態が変わった。   → 厚さ5mm

      この土器の厚さは、最初の出発の場所である、シベリアの1/3であった。
  極限まで薄く作成:熱伝導がよい。しかし、作成は困難であった。
         
  彼らは、粘土の性質を改良した。→顕微鏡によって検査した結果、鹿・イノシシの毛を粘土に混合したことが判明した。壁土に、藁を混ぜたようなモノである。
                
 シベリアのアムール川流域のもの 厚さ厚く樽状(ビールのカップ状)で、食物の貯蔵用としたようであった
日本のもの  薄く 底が丸い(茶の湯飲み状) 煮焚き用
 煮ることによって食料に変えるという・・・以後、1万年にわたって続く縄文時代・土器の文化を築いた。
 (2) 黒潮に乗って、南から北への、海のハイウェイを渡る祖先
貝殻文様の土器 
@   南九州の民・・・・・縄文時代の初め花開いた民族
        ・・・現代人や、後の縄文人よりも背丈は小さい
              (男155cm女144cm)。
 約2万年前。時は、氷河期の日本列島であった。
縄文時代の初め花開いた民族  沖縄本島 港川遺跡 ほぼ完全な9体分と化石。
    18,000〜16,000年前のモノだ。
港川人 ワジャク人 柳江人:中国 山頂人:中国
後頭部後ろに突き出ていない 同左。ジャワ人の特徴 後頭部後ろに突き出ている 後頭部後ろに突き出ている
眉間張り出している
頬骨張り出している
眉間張り出している
頬骨張り出している
 ※ 中国の遺跡と比較すると、ジャワ人・南方系のワジャク人とよく似ていた。






南からやって来た人々がいた。

桜島:250mの高台に、9,500年前の遺跡→ 上野原遺跡がある。ここは鬼界カルデラの火山灰層。
 50余りの住居跡が発見された。 たて穴住居で、広さ8畳ほどの一軒の家に5人くらいの人。
 集落全体では50人程の人口であった。
 熱く焼いた石による蒸し焼きが調理の方法であった。燻製(くんせい)作りも行われた設備跡が発見された。






 また、7,500年前のもので、一般に弥生時代かと思われる土器が発見されたのだ。しかし、弥生より5000年以上前のものであった。
  独自の文様を持った土器 → 縄文時代の土器は縄の紋 ここは、貝殻文様
    海に近い人々の暮らし振りがわかる。
   発見された丸ノミ石斧は、丸木船を作る道具であった。現在のノミと同じ形である。
     鹿児島より南の沖縄の列島でも同様なものが発見された。
 6,300年前、薩摩硫黄島に大噴火がおきた。→  南九州一帯を、土石流

○ ジャワ島のワジャク人:ワジャク洞窟  オランダ学者が、 1889年に発掘。
石灰質の土の中から発掘   地球が氷河期だった頃ここでは温暖で過ごしやすかった。
100を越える人類化石発見・・・多くの人が集まっていた。
                
◇ 海を隔てたところに何故集まったか??
島周辺の海底地積調査の結果、かつて、この辺りは、今より100m海面が低かく、陸続きの「スンダランド」だった。

 ジャワから北へ1,000キロ→ボルネオ島のニアー洞窟:スンダランドの北部
巨大な洞窟 ジャワ島 スンダランドの民 ・・・ サイやイノシシを狩猟する
          
 3万年前に人類が生存した証拠の痕跡である。
  巨大な洞窟(東京ドーム2つ分を納める大きさ)。
    ここで、 1958年に人骨とサイやイノシシの骨を発見した。  
          
 北のシベリアと並んで人類繁栄の拠点となっていた。
 しかし、約2万年前の最寒冷期以降、海水面は上昇→そして、地球温暖化 → 島は水没 →
  そこで、遠くの海に乗り出す智慧をあみださざるを得なかった。・・・。

◇ どのようにして海に乗り出したか? アラン・ソーン博士は述べた(元オーストラリア国立大学)
               
 東南アジアは、1,000種類を越える竹の宝庫である。
 竹の筏(いかだ)で何千本もある河を・・・、そして海岸へ、やがて海を越えるようになったのであろう。
       
○ バジャウ の人々→ 最近まで海上生活が主体だ。今でも、600Km離れた海に漁に出る
   彼らは、潮の流れや海鳥の動きで方向を見る能力を持っている。
    竹の筏(いかだ)
から、やがて丸木船にと、製造技術は進歩したのである。

○ 造船の技術進歩によって、
  民はオーストラリアへ、そして
    フィリピン方面へと向かった

 例えば、ドゥマガット人であえる。
 彼らはホモサピエンスの顔立ちと髪の毛を持った人々である。
           → スンダランド水没の頃の、海を渡った人類だ。
     血液の分析結果から、スンダランド水没の頃ここに移動したことが判った。
                
・・・このように、多くの海洋漂流民となって移動したのである。
       だが、しかし、丸木船のみでは、不可能であった。

黒潮
 黒潮  (幅200Km 水深1km) 
                
 黒潮は、フィリピンから5000キロに渡って流れる、いわば、海のハイウエイであった。
 この、黒潮が、フィリピンと1000キロ隔てた沖縄とを結びつけたのだった。
 
 フィリピン タラワン島で、 丸木船 & 丸鑿石斧 が発見される!これは、4,000年前のモノであった。
 その丸木船は、 沖縄のそれと共通点が多かった。。

A  沖縄人の暮らしぶり ・・・  熟年男性骨格9体の港川人骨発見。
港川人 ○ 港川人は、 身長153cm。  小柄で華奢(きゃしゃ)であった。
 栄養失調であったらしく、X線で調べると、横に走る線・ハリス線が見える。腕、肩が細い。
  しかし、足は丈夫。このことから、採集・狩猟の民 と、推定することが可能である。
 調査の結果、獲物は、イノシシ、鹿(琉球鹿)であった。
 琉球鹿は、体長1m未満の小動物である。狩りはし安かったので、狩りをしつくし、鹿はすぐに絶滅した。
 民は、飢えと背中合わせの生活であった。かれらは狩りの獲物を探しながら移動するのが常であった。
 ・・・が、しかし、彼らは琉球にとどまって、南九州にたどり着いた痕跡はない。
 南九州まで黒潮は達していなかったのである。

 この頃は、まだ、氷河期だった。
 2万年前、黒潮は親潮の影響で、沖縄の北で方向を変えていた。
 その後の温暖化の結果 ・・親潮の勢いは弱まる。・・・が、
           
  やがて、1.2万年前には、南九州まで黒潮は達するようになるのであった。

B  9,500年前  鹿児島・上野原で定住生活   日本の他の地域に先駆けて・・・。


上野原人
 鹿児島を中心に、九州の十カ所以上で、丸鑿石斧が発見される ・・・ 丸鑿石斧
 調査の結果、祖先たちは南九州地域で3,000年の繁栄を示す。
 彼らは、照葉樹の椎の実を食べていた→ 
上野原人

 そして、斧で、照葉樹の森を切り開く技術をもっていた。 ヤマモモ、シイ等を食糧に得ていたことが判る。
          

 65個の磨製石斧が発見された。
  表面を磨き上げた石器→敲打技法で、表面をたたいて丸い棒状にし、表面全体を磨き上げて強度を高める。
  ここで開発した技術は、その後、様々に形を変え、森の道具に変貌することになった。
○ この地域で、7,500年前の土器も発見された。  口狭く、胴部広い土器であった。
          
 発見された壺型土器(弥生人と同じ形を、5,000年も早い時期に・・)は、 高さ50cm。
 弥生人は、
 この形の土器は、穀物運搬用に使われたと思われる。 → 穀物栽培か??
 そこで、プラントオパール分析結果、
 アワの様なエノコログサ属、ハトムギなどのジュズダマ属、ヒエ属が確認された。
 他の地域に先駆けて雑穀の栽培をした痕跡があったのであった。
○ 6,300年前。  鹿児島沖の火山(ピナツボ火山の15倍の規模であったと推定)噴火!
  水面下100mで噴火した。上空3万mまで噴煙が立ち上がったと、推定できた。。これが南九州を襲った。
                (注:1997年団地造成工事で発見される。)
  3,000年の間繁栄し、しかし、6,300年前の火山噴火によって滅びることになったのである。

◇ その後、日本人に影響はなかったか?

C その後、北に移動していた
 高知県(木屋ケ内遺跡) 
高知県(木屋ケ内遺跡) に 磨製石斧 貝殻文様の土器が発掘された → 黒潮の民が、ここで、先住民と交わったことを証明した。
和歌山(黒潮の混じり合うところ)
和歌山(黒潮の混じり合うところ)でも・・・。
   港川人 骨の分析結果から、縄文人に混じり合ったことが判った。
             そして、更に北へと・・・。
東京・多摩ニュータウンNo.72遺跡
4,500年前のこの遺跡には、 磨製石斧249本が発見された 。
 南九州のモノと同じ形のモノが、これらの土器に混じっていた。
13,000年前 〜 2,300年前の縄文時代は、およそ1万年間
日本人遙かな旅 海が育てた森の王国
8,000年前の縄文時代の木はハンノキ。
鬱蒼とした森の中に生活を営んでいた。
  地球の温暖化。そして、海底に沈む・・。 
縄文人の中に日本人の原点を探りたい
(3) 東京 多摩ニュータウン
    1,000を越える住居跡   土器も多い。
たて穴住居 関東ローム層
○ たて穴住居 丸いくぼみ  深い穴に柱  およそ10畳程の家 屋根を茅などでふいた。
  しかし、これより、南九州の方が遺跡は古かった。南九州の方が、古い遺跡であったのである。
          
 20〜30の住居跡  6,000年前からこの地に生活した。 標高100mの場であった。
 スリ石と石皿で、ドングリを磨り潰す作業の痕跡が認められた。
 森で採集生活をして、一カ所に定住したようである。 
 縄文時代の初めは、樅
(もみ)・白樺などの限られた木の実を食し、移住採集生活であった。
 
気候の

変化
○ ある時、劇的な変化:日本海の変化 ・・・海底の泥の調査(産業技術研究所)結果による。
          
 秋田県男鹿半島沖 海底2,000mの泥  過去9万年に渡る海底の土の色変化を調査
氷河期の終わりから黒→ 氷河終わりより灰色 → 1万年前から深緑色
 
 深緑色は、植物プランクトンの増殖を示している。・・・ 8,000年前頃から急激に暖かくなる。
 これは、地球温暖化の証であった。
 温暖化により、海面が上昇して、島は大陸から切り離されることになった。
 ここは黒潮の源流(津島暖流)。
 シベリヤからの気流が大量の雪をもたらし、太平洋側には大量の雨が降った。
 春・夏・秋・冬の季節がはっきりとし、森の姿を変えることとなった。
   
 針葉樹 落葉広葉樹であった森も、  
 11,500年前より、温暖帯落葉広葉樹(クリ・コナラ)、照葉樹(かし・シイ)となる。 
 やがて、樫・椎の樹林が列島全体に覆う。・・・・ 東京多摩も同様であった。
食糧 ○ 様々な食糧
 春:ワラビ・ゼンマイなどの山菜   夏は 魚  
 秋:ヤマブドウ・栗・ドングリ   保存して冬へ
定住化 森に定住化して  住居
 石の斧   磨製石斧(オノ)  この石斧で森を切り開いた
  
  福井県で出土:5,500年前のものでは、
 ユズリハの柄で、ソケット状の頭に、ひもで縛り付けてあった。

  1軒の家で約32本の木材を使用してあった。
 20年ごとに立て替えられていた。→(これは、森が復元する年数であった)
 自然のリズムに合わせた生活を行っていた、と考えられる。
  世界で一番多様な種類の木を持つ森=日本列島であった。  
東京都立大学(山田昌久助教授)で実証 →  柄の作り方が重要である。
○ 石の斧の破壊力:
 直径10cm木材 で 5分
   30cmならば 30〜40分ほどで伐採可能である。 
@ 青森県山内丸山遺跡・・・ 5,500年前
巨大集落 5,500年前忽然と表れた 青森県山内丸山 35ha(35万u)の広大な集落であった。
○ 集落の中心部:中心部に直径1mの柱6本=物見櫓?
○ 32mの住居  200人以上収容可能 集会所か?

 最盛期には、人口を500人も擁す大きな集落であったと推定できる。
○ 土器 ・・ 細長い円筒形 
○ 土偶:様々な表情のものが1,500点も出土した。 リンク  山内丸山遺跡
         
 ☆ 国立民族博物館 辻誠一郎助教授によると ・・・・
 土壌サンプルで、花粉の歴史を調査した結果、以下のことが判明した。
 集落の始まりと共に、5,500年前頃からブナ・コナラの花粉が激減したようだ。そして・・
  その頃から栗の花粉が急増している。このことから・・
 森林を伐採し開発したと見られる。・・栗の栽培かと思われる。
         ↓
  自然界では、ここのように栗の花粉がその50%以上を占める等と言うことはあり得ない。
          
 ☆ 佐藤洋一郎助教授  静岡大学(植物遺伝学)によると ・・・・
  この場所の5,000年前の栗の実からDNAを調査した結果。  パターンが同じであった。
  野生の栗は、個体ごとにDNAのパターンがそれぞれ異なっている。→ これからも、
  栗の栽培の事実を物語っている。
   当時、栗の実は人口を支え、樹木は住居の資材となった。
          
 ○ 編み篭(高さ15cm程) 等様々なものを作る  
 ○ 漆の栽培も実証:漆の器  耳飾り・・磨製
 ○ 遺跡のシンボル 15m(5階建てビル) の高さ 6本柱 
   海も見える・・・海からもよく見える
 ○ 翡翠 ・・・ 新潟より500kmの遠距離をここに運ばれてきたのである。
 ○ 黒曜石・・・ これは、北海道十勝および佐渡から・・・・

 日本海側に数多い集落があったようである。数多くの多様な交易の跡が見える。
 各地からここに集まり、幅15mの大通りを通り、資産を交流したことが伺われる。
 ここからは、漆の器・栗の実を持ち出す

   
◇ 1,000年に渡り、この集落は維持され続けた
 ○ 盛り土
(ど)もあった。・・人工の丘が複数→ 1,000年以上の時をかけて2m積み上げられる
    盛り土
(ど)は、集落の中央の広場を囲むように、数カ所あった。
  盛り土
(ど)の一番下に先祖の墓らしき痕跡・・・岡田康博 青森県教育長文化財保護課
  これは先祖供養の場所が年月と共に 聖なる空間となった。

 ◇祭礼の場所・・・人々の結びつきは強まり、一層の繁栄をもたらすことになったと思われる。
  完全な土器を壊して、埋葬してある。
  女性の土偶は、実りを祈るためのモノであったろう。
  このように、この場は祭りの場所として機能した。 土器を割り大地に戻す

  しかし、4,000年前に暮らしの痕跡が消えた。・・集落の衰退。
A ・集落の衰退
 ○ 遺跡の西側から直径50cmの栗の大木を発見した。
   これの年輪調査によって、4,200年頃から成長悪くなったことが分かった。
          
 ○ 環境変化 小川原湖(三内丸山遺跡の西・三沢市の北)の泥の調査 
   プランクトンの調査から、4,000年前のチューブ状のものが丸くなっていることが分かった。
  ・・・ 3〜4度の気温変化(低下)があったと思われる。
  プランクトンは、固い殻を作り冬眠状態になっている。
           (東京都立大学 福沢仁之教授・環境変遷学)
 収穫が低下し、人々は集落から離れて、周囲の森へと分散していった。・・人工の森は消えた。
 このころ、日本列島の他の地域にも、この傾向があった。(分散)

B 小高い丘から平野に移動を始めた。
 各地に広大な平地が現れた。・・4,000年前、小高い丘から平野に移動を始めた。
 竹を編んだザル。栃のみをアク抜きする施設。平野の水辺。
 埼玉県川口市・・9×2.4m 筧を渡した施設。  (金箱文夫 川口市教育委員会)
 村人が集まって共同で作業・・アク抜き
 等距離のところに3つの集落を発見。共同で施設管理。
 栃の実を拾って、灰汁抜きの共同作業を行った形跡が認められた。・・森と共生する暮らしの原型である。
  そして、・・・
 やがて、 稲作が始められた。
(4)  稲の栽培を・・
○ 中国・運南省 多種多様の米(数千種)が栽培されている。
  ここが、従来、稲作発祥の地と言われてきた。
  納豆・豆腐も存在し、日本文化のルーツと言われてきた。
 しかし、  雲南省の遺跡から出土した炭化米の分析結果から4,000年前のものと判明した。・・・・・?!
 では、日本の米の由来は中国からであろうか??
     ↓
 ところが、日本列島の稲作の歴史の方が雲南省のそれよりもはるかに古いことが分かった。
さて、・・・・                 他に目を転じると・・
************************
 徳島県頓原町  板屋V遺跡:縄文時代の遺跡には、稲作の痕跡があった。
   地層の中にイネのプラントオパール(40ミクロン)
 岡山県の朝寝鼻貝塚、島根県など、西日本の遺跡9カ所に稲のプラントオパール発見。
   中でも朝寝鼻貝塚のものは6,000年前のものであった。
   (我が国の稲作は、縄文時代早期〜前期初頭から、
  今日まで途切れることなく続いて来たと言うことだ。)

************************
 中国湖南省で、玉せん岩遺跡が、1995年に発見された。
       (袁 家栄所長 雲南省文物考古研究所)
  ここが、最初に稲作を始めた人々の里であった。。
 12,000年前頃から人の住んだ痕跡があり、この頃は、日本では縄文時代が始まった頃である。
 この地層から、土器と共にイネ籾出土した。世界最古の稲である。
 狩猟採集生活から、稲作開始したことを知ることができる。
  芒
(のぎ=籾の先から伸びるヒゲ)が退化しているので、栽培種と思われる。
 自らの生活を豊かにするために稲の栽培を始めたようだ。
 淅江省(雲南省の東、長江を1,000km下ったところ)河姆渡(かぼと)遺跡 
   湿地に多くの柱を打ち込んで造られた住居跡を確認した。 
  7,000年前のここは、海岸のすぐ近くに位置し、動物の骨によって作られた銛や釣り針数百個発見。
  :漁労生活を行っていた。  
注:近年、黄河文明よりもずっと古い長江文明の存在が明らかとなった。
    木製の舟のオール。 移動式竈
(かまど)も出土・発見される(7000年前のものだった)。
                   
  
   今でも、竹で編んだ舟で漁労生活・・・・ 時々、九州あたりにまで流される漁民が居る。
           
 ☆ 数百人が暮らす集落・・・イネが重要な食糧   土器にイネの絵が・・・
   腐らずに残った米150tを(静岡大学 植物遺伝学者 佐藤洋一郎助教授)DNA分析。
   塩基配列は、  CCCCCCC(7)AAAAAA(6)  熱帯ジャポニカ特有の配列であった。
     (今、日本人が食べているものの原種米。今より原始的な米であった。)       
そして・・・         さらに・・
 佐賀県 菜畑遺跡出土の炭化米(縄文時代晩期) ・・・ これも、また、熱帯ジャポニカのイネであった。
                         
(DNA分析による。) 
  河姆渡
(かぼと)から日本列島までは、東シナ海を隔てて800kmあまりである。
  祖先は、中国大陸から渡来した漁労民であろうと思われる。
           
 対馬・佐賀貝塚から出土した縄文人骨は、6,000年前以降の対馬に縄文人がいたことを物語っている。彼らは海に生きる漁労民であった。
 頭蓋骨を調査してみると、
外耳道骨腫(潜水の跡)が確認できた。外耳道骨腫は、度重ねて潜水を繰り返す人にできるものである。水圧などの刺激によって外耳の軟骨が隆起したものである。

 今も、対馬の人に受け継がれている。 素潜りで海底のサザエ・アワビ取りもする。
 半農半漁 。耕地の一部に赤いイネを、今でも作り続ける。「古代米」と、呼んでいる。
 「絶やすと、家に不幸が訪れる」と、言い伝えられている。
 秋、俵に入れて、天井につる し、祭りに祈る。

☆ 水稲の前に陸稲(おかぼ)栽培か・・・・!                   
 熱帯ジャポニカ  人口1,000人のナムガワ村 (ラオス奥地)今も作り続けている。
 やや赤みを帯びている。粘りけが多く、餅米のような食かん。蒸籠で蒸して食べる。
 原野を焼いて(焼き畑)、数日後に播種〜5ヶ月後に収穫。・・・・焼き畑のスタイルの陸稲である。
           
 縄文時代に水田がないので、稲作はないと思われていた。
 日本列島で稲作が始まった6,000年前は、今より2〜3度高温であった。
 南九州や中国地方では、ヒエやアワなどと混植されていたことが、プラントオパールで判明した。

(5)

 水田技術の伝来
 中国 こうそ省  7,000  6,500  6,000  5,500年前 迄の4種類の炭化米を発掘。
  調査の結果、5,500年前から急に大きな米となる。それは現代の米の大きさであった。
           
 6,000年前から、人工的な湿地で、稲作を開始したと思われる。→ 温帯ジャポニカ
 これが中国大陸で北上し、およそ3000年前には朝鮮半島南端でも作られるようになった。 
 サンチョンチョン(対馬から海を隔てて50km)この地まで、縄文人たちが来ていた。
 縄文土器や縄文人の生活道具が、この場所から出土したのである。
 独自の土器を持つ朝鮮半島の人々が縄文土器を作ったことは考えられないので、縄文人自らこの地に来ていたのである。交易が盛んに行われ、朝鮮半島から水田の技術を持ち帰ったと思われる。

 2,600年前の水田の跡。佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡(九州北部)から縄文土器出土。
 日本最古の水田跡も発見された。水稲作はやがて、九州北部に広がってゆく。
 吉野ケ里遺跡(佐賀)は、水田稲作を基盤とする生活であった。 弥生時代の幕開けであった。
 本州最北部までに広がるのに、いご300年の時間がかかった。
 九州北部から北へ2,000km 稲作は、従来、青森県津軽平野 平安時代、今から1,000前と思われていた。
 2,000年前の遺跡に、水田の跡があった。田舎館村
(北緯41度 世界最北端)。2000年前の炭化の米が発見された。
 そこで、弥生時代中期:西暦元年頃には、ここに達していたことがうかがわれた。
             
 中国大陸や朝鮮半島では稲作の北限は39度以北にはない。稲は、もともと熱帯性の作物である。従って、品種改良の結果そうなったと思われる。
(静岡大学植物遺伝学 佐藤洋一助教授)
 DNA分析の結果、熱帯ジャポニカの遺伝子も、混植の結果雑種ができることが判明した。
 雑種のイネの方が成長が早い。しかも、収穫が1月早まるのである。
             
 熱帯ジャポニカは、日本各地に栽培の跡が12カ所の弥生時代の水田跡に観られる。
 混ぜて植えられていたのではないか(混植)と、推測できた。(生物の多様性が有効に活かされていたのである。)
 水田のところどころに、地力回復のための休耕田も認められた。
 ☆ ア・ラ・カルト ・・・ 朝日新聞 ’8,7.7より
 日本のイネ「南にルーツ」      遺伝子変異手がかりに推定
 日本や中国で栽培されるイネ「ジャポニカ」の起源が、インドネシアやフィリピンまでたどれることがわかった。
 農業生物資源研究所(茨城県つくば市)の井澤毅・主任研究員らが、もみの大きさを決める遺伝子の変異を手がかりに突き止め、6日付の米科学誌ネイチャー・ジェネティックス(電子版)に発表する。
 もみの幅が広くて米粒が大きいジャポニカは、これまでの考古学的な調査によると、約1万年前の長江中・下流域が起源との説が有力だ。
 研究チームは今回、ジャポニカの「日本晴」とインディカの「カサラス」の2品種を比べ、米粒の大きさの変化にかかわる遺伝子(qSW5)を発見。この遺伝子が変異してジャポニカが大きくなったことを確かめた。
 この変異と、もみを穂から落ちなくする遺伝子変異、もちもちした食感にする遺伝子の変異の計3種類についてアジア各地の古い栽培品種142系統を調べた結果、フィリピンやインドネシアの品種で変異のないものと、もみを大きくする変異のみをもつものがみつかった。このため、この地域で他の二つの変異が組み合わさってジャポニカができた。
(米山正寛)

(6)  渡来人     稲作技術
 二千数百年前 小さな国が生まれる。 新たな人々であった。
 九州福岡  集落発掘された。2、400年前の10戸集落。堀に囲まれた環号郷集落。
 深さ2m 幅10mの堀に囲まれていた(環号郷集落)。
 畦や水路完備した、大きさが現在のものと変わらない本格的な水田の跡であった。
 焼けて炭になった米も見つかった。
 福岡空港(板付遺跡から近い)に、1994年に発掘された。 (中橋孝博  九州大学教授)
  一体の人骨があった。 これは、2、300年前のものと分かった。 
  水田稲作が始まった頃の集落から人骨が発掘されたのは初めてのことであった。 
   九州大学と名古屋大学共同研究によって、CTスキャンによる骨の分析が行われた。
   その結果、以下のことが判明した。
顔の輪郭 特  徴
縄文人 四角い顔
渡来人 面長の顔 縦の長さは、2cm長い
横から見ると扁平であった。(眉間から鼻にかけての隆起小さい)
 全く別の遺伝情報っを持ったヒトであった。両者には、大きな断絶があった。別な人々である。

 山口県「土井ケ浜遺跡」で、福岡と同じ性質の骨(350体)を発見した。
 福岡の100年後の遺跡かと思われた。
 しかし、福岡と埋葬方法に一致点があった→ 皆同じ方向に顔を向ける
 そして、西からおよそ20度北を向く。→ 朝鮮半島・中国方面を向く埋葬の方向であった。

     このことから、大陸からの渡来したと考えられた
 山東省文物考古研究所 魏 成敏 氏は、3,000〜4,000の墓を調査し、ここで400体の人骨を発掘した。
 松下孝幸
(土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長)氏は、中国に渡って調査した。    
 計測の結果  
 このころの中国各地の人骨と、「土井ケ浜」の人骨と類似していることを確認した。
          ・・ 当時の日本人、縄文人とは特徴がかけ離れていた。

?日本列島を目指した理由は何か ???
  中国は、春秋戦国時代であった。
 小さな国々が次々と滅ぼされ、7つの強国に統一される時代だった。
 (秦 韓 楚 魏 趙 斉 燕
(えん)の七国)。
 春秋戦国時代の戦乱は、500年にわたって続いたのであった。
三年汝に任ふれども   我をあへて顧みるなし
ここにまさに汝を去り  彼の楽土へ逝かむとす
 楽土 楽土
 ここに我が所を得む
 ・・・  「詩経」より

血液による分析(HLA:ヒト白血球抗原)→ 分子構造の違いによって1万を超えるタイプに分けられる。
    
徳永勝士  東京大学教授(人類遺伝学)
B52-DR2 北中国 朝鮮  北九州 近畿  弥生時代の間に、何度かにわたって日本列島に渡ったと思われる
B46-DR9 長江流域 北九州 近畿
B54-DR4 中国南部 九州
B44-DR4 朝鮮半島 沖縄  九州 四国
 何回かに分けて日本列島にやって来た様子である・・・戦乱を避けて・・・・?!
 あるいは、新天地にロマンを求めて・・
   数百年にわたって渡来したようだ ・・・ この辺りの時期に急速に人口を増やしている。
   そして、東へ広がった。

   九州の「隅西小田遺跡」の墓は、 50年間に2倍に増加し、百年の間に数倍に増加していた事が解った。

(7) 渡来人の持ってきたもの。
戦いの

遺伝子
○ 大阪平野 河内湖 
  ここには、周囲に未開の森・湿地があった。 ・・・当時のヒトの足跡と・鹿の足跡の化石を認めた。
 鹿を追っていたらしい。
          
 縄文系の人々の集落が点在していた。ここに渡来系の人々がやってきた。→集落を作った。
   その集落は、数十年で、縄文系の人々の人口を上回わった。

 鏃
(やじり)の長さ5cm=縄文系の人々のそれの倍の長さであった。
 それは、戦いの武器であった。→縄文系の人々との間で戦いがあったことがうかがわれた。
          
 1991年発掘・・縄文系のヒトの人骨を発見した。
 これは17個の鏃を打ち込まれて死んだ様子であった。
 春秋戦国の乱世を生きた人々の持ってきた戦いの遺伝子がうかがわれる。
 これは、現日本人の行動様式・精神文化に、大きな影響を及ぼしたと思われる。

☆ 彼らは、日本列島に「戦い」の遺伝子をもたらした。
 石の材質は、サヌカイトだった。
 近畿地方で使われた武器は、四国の香川県より入手したものらしいと思われた。
 このことは、当時の交易の範囲の広さを物語っていた。  さて、・・・・
 武器の発達とともに戦いはいっそう凄惨になった。各地で戦いが繰り広げられていたらしい。
 戦いと共に渡来人は、さらに東へ拡大していった・・・・


西の渡来系:
東の縄文系
 渡来人の拡大は、濃尾平野の東まで拡大し、ここで留まっている。
 ここの深い森が影響しているようであった。
          
 縄文人の遺跡の分析から、縄文人の85%は、東海北陸以東の東日本にすんでいたことがわかった。
 水田を切り開くことの困難な深い森、縄文人の大きな人口密度→東日本は渡来系の人々にとって容易に入り込めなかった様子であった。
          
 西の渡来系:東の縄文系・・・この状態は、これから200年ほど続くことが判明した。


○ 兵庫県伊丹市 
 5cmに満たない土器のかけらが出土した。
 文様が深い溝を複雑に組み合わせたものであった。
 小林青樹教授 國學院大學栃木短期大学専任講師(考古学)は、
 「長野県を中心にする氷式土器に似ている。」という。
 東日本から運ばれてきたように思われたが、材料の粘土が兵庫県のもの。
      ↓
 縄文系の人々が、ここまでやってきて作ったものらしい。
 岡山県の土器は、岩手県の土器に似ている。
 他に、50を越える遺跡から、同様な結果が得られた。

 ○ 青森県→ 近畿 淡路 北九州
 ○  関東 → 北九州
 ○ 群馬地方 → 近畿 中国 四国

 1,000kmを越えて、人が移動したことを示している。
 こぞって西日本に稲作技術を会得しにやってきた。そして、交流が生まれていた。

(8) 交流と通婚
中里遺跡 ○ 箱根の山を越えた小田原 「中里遺跡」が調査された。 これは、2,100年前のものであった。
   1998年に、渡来系人の遺跡発掘が行われた。そこは、6万hm
(東京ドーム二つ分の広さ)であった。
 ここは、水田を備えたものであった。
 それまでの関東地方にはなかった規模だった。 多いときは200人ほどの人口であったと思われた。
 神殿と思われる建物があった。ここには、縄文人も暮らしていた。  巨大な水田集落であった。
 多くの縄文系の土器に、弥生土器土器が混在した。
 渡来系の斧に混じって、石の鍬があった。これは縄文人が使ったもので、土地の開墾に使われた。
 ここには武器はない。平和な集落であったと思われる。
               
(戸田哲也  玉川文化財研究所 所長)
  
水田稲作の技術と開墾の縄文人の技が交流し、互いに融和していた。・・・・と言う。
アバクチ
洞穴
○ 岩手県北上山地のアバクチ洞穴(岩手大迫町)を1996年に発見した。
  ここで、2,000年前の人骨が一体分発掘された。 これによって全身像の復元が可能であった。
  結果、身長1m 子供の骨であった。 しかし、これは、・・・

   弥生人のものとは異なったものであった。 ・・・ 混血の証拠であった。
眼窩 丸い 渡来系の特徴 人類学者・松村博文 国立科学博物館研究官

    2,500人の歯を分析。
大きな歯
鼻の付け根 頑丈 縄文系の特徴
短い小さな歯

○ 歯を分析 ・・大きさと形は、ヒトの系統を探る有力な手がかりとなる。
 ヒトによって大きなばらつきがある。混血の度合いは地域によって様々である。
 その後、西日本を中心に巨大集落を核にした小さな国がいくつも生まれたことが判った。
纒向(まきむく)遺跡 ○ 幾つかの争いを経て、奈良県(桜井市)の大和盆地に古代国家が芽生えた。 纒向(まきむく)遺跡
 この場所から、東海・山陰・瀬戸内・北陸 など広い地域から持ち込まれた土器が出土した。・・・
  これにより、各地から人々が大和の地に集い巨大国家を築き始めたことがうかがわれた。
  日本という国の原型が作られた。
 2009年2月、新たな発掘調査が始められた。
注: ☆ 後の日本・古墳の話題・・・・・ ☆
古墳の数 ('8年現在) 今後、発掘調査が進められて、新しい歴史の真実が明らかとなってくることであろう。

埴輪の特長;(特徴の違いがはっきりとしていた。 静と動。)
 関東:馬・武人像・太刀などの武器が多い。
 近畿:家・家財などが多い。
関東地区
(利根川流域に多く分布)
大和王権・古墳数
38,000基 29,900基
埴輪発掘数 913点 埴輪発掘数 812点

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