抜粋B


  (昭和25年、柴田氏は外電の中からカール・ムント米上院議員の演説を発見、テレビ時代の幕開けのきっかけとなった)

………

アメリカの電波事情視察

  読売を辞め、ラジオと原稿書きに専念していた昭和二十五年六月だった。数ある外

電の中から、これは怪しからん、と思う一片のニュースに目を奪われた。ワシントン

の情報政策の生みの親、カール・ムント上院議員が行った議会演説の簡単な要旨だっ

た。

それは世界中に蔓延する共産主義を防ぐためには、テレビが一番有効な武器となる。

そこで彼が創設した「ボイス・オブ・アメリカ」に加えて、さらに「ビジョン・オブ・

アメリカ」のネット・ワークを世界中に建設する必要がある。飢餓と無知と恐怖

こそ彼らのねらう三大餌食であり、これを打ち破る最高の武器としてテレビのネッ

ト・ワークをまず日本とドイツを手始めに進めたい――という趣旨の提唱だった。私

は早速その電文を司令部ラジオ課に持ち込み、「講和を目前にしたいま、アメリカの

政府機関としてこんな強大なものを持ち込まれたら、主権の侵害となるばかりか、逆

効果も甚だしい。公共放送のNHKですら不自由でやれないことを、ワシントンの

政府機関の手でやろうなどということは全くナンセンスじやないか」といきり立って

喋りまくった。これには一言もなかった。

  すると課長が、「いや、実は今、君に伝えようと思っていたことがある。ワシントン

から、アメりカの電波事情視察のために、君を招待しようという通達が来たところだ。

ちょうど幸いだ。直接行って、ムント議員と話し合ってみたらどうか」という。

私は飛び上がらんばかりに喜んだ。「それじゃ、早速ムント演説の全文を取り寄せ

て欲しい。十分に読んだ上で対抗策を考えるから」と頼み、取り寄せてくれることと

なった。そのあと、ラジオ課の上に、一般通信局(CCS)といって、ラジオも含め

て通信行政全般を統轄する部局が第一相互の司令部本部にあるから、そこへ出向いて、

招待の件について詳しいことを聞くように、と指示された。

 局長のバック少将とファイスナーという法律専門家が出迎えてくれた。二人の説明

によると、ワシントンに連邦通信委員会(FCC)という独立行政委員会がある。

ラジオ、テレビといった強大な言論機関の許認可問題は、一党一派に偏しては、民主

主義に反する恐れがある。そこで各界から民主的に選ばれた代表六、七人で構成する

委員会制度で運営し、大統領といえども干犯できない、独立した行政委員会となって

いる。日本でも今まで通りその権限を時の政府や政党に握らせておいたら、とんでも

ない利権と偏向に走る恐れがある。そこで先般(FCC)そっくりの電波監理委員会を内閣

から独立した行政機関として発足させ、目下日本最初の民間放送の許認可問題に当た

らせている最中である。なにぶん日本では初めての、進歩的な民主制度で、一般に馴

染まず、政府も国民もその意義を正当に理解していないきらいがある。そこで委員全員

と一緒に貴下に行ってもらいたいのは、日本のジャーナリズムの中で、新聞とラジオ

の双方を体験した人は君以外にないし、十分勉強してもらった上、この独立行政委員会

制度の存在意義をぜひとも世論指導の上で支持、宣布してもらいたい、という懇切な

説得だった。もちろん私は、二つ返事で感謝の意を表した。この時の司令部の懸念が

現実となり、やがて電波は予期以上の利権の対象となり、田中角栄がこれをフルに活用

して マスコミ界に君臨する存在となろうなどと、だれが想像し得たであろうか、それは

また後に詳述する。

  そのうちにムント演説の全文が届いた。すでに上院の専門委員を世界中に派遣し、

特に日本の場合、全国ネットを含めて四六二万ドル、つまりB29二機分の予算で完成

できるという、具体的な調査まですませていることが分かった。これでは「本気だ

な」と思わざるを得ない。早速私は、ムントに接触するルートを探し回ったところ、

リーダーズ・ダイジェストの東京支社長スターリング・フィッシャー氏が名乗りを

あげた。ムント議員なら彼と同郷、ノースダコタ出身で、懇意の仲だから、私のスケ

ジュールが決まり次第、会見のアレンジをするといってくれた。幸い私はダイジェスト

社に頼まれて、毎月の記事の中から特に国際的に重要な問題を取り上げて、発行前に

ラジオや新聞で使って欲しいと頼まれていた。

 

………………………

 

そういうヒドイ目に遭いながらも、毎日ビッシリと組まれたスケジュールをこなし、

その間隙を縫って、念願のムント議員との会談の日が来た。私は単刀直人に口火を切

った。

「あなたの提案はまことに魅力的だが、これを受ける日本人、なかんずく言論人の立

場に立って考えていただきたい。言論機関は、もともと不偏不党で、自由な民間人の

手で運営されてこそ、初めて権威と信頼をかち得るものです。それを一番教育してき

たのはアメリカではないか。特定の政党や政府機関がやれば、初めから旗幟鮮明、正


丸出しで、言論の自由を味わった国民にとっては、単なる宣伝機関ととられ、せっ

かくの企画も逆効果を生むばかりかと思います。ましてや民族独立の悲願に燃えて、

主権回復の前夜に立つ日本が、いかにアメリカといえども政府の手でテレビ網を張ら

れたとあっては、言論の自由も独立もあったものではない。主権の侵害だという囂々

たる非難の的となることは、目に見えております。ご趣旨のほどは、私自身、身をも

って闘い抜いてきた体験から、重々分かっております。ですから、どうかアメリカは

かかる計画から手を引き、われわれ自身で責任をもって運営できるよう、ご協力願え

ないものでしょうか」と、手に汗しながら迫っていった。その上で、読売争議の経緯

から始まって、不幸な、馬鹿げた日米戦争の裏に介在した尾崎、ゾルゲの敗戦謀略と、


ルーズベルトの頭脳の中に食い込んだアルジャー・ヒス事件発覚の端緒等々について

まで 一時間余にわたって話し込んだ。

「そうか、私も政治家として、今振り返ってみると、ルーズべルトが、なぜあの時日

本の経済封鎖などやったか、当時は全くわけも分からず、ずるずると陥れられていっ

たような気がする。二度とあんな不幸を繰り返さないよう、これからは、お互いに手

を握り合っていきましょう。あなたの計画実現には、全力を挙げて援助することを約

束します。早速ニューヨークの専門家に連絡をとるから、あなたもすぐに出掛けて、

とくと打ち合わせてください」

………

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