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  (昭和21年冬、高松宮殿下と竹田恒徳氏(旧竹田宮殿下)が読売新聞本社を訪問された…関係写真@−上段参照)

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  間もなく冷たい冬風が吹きすさぶころとなった。ストーブもない社長室で四人ともオーバー

を着たまま話し合っている写真が残っている。高松宮と竹田宮のお二人が揃って本社を訪問

され、「ご苦労さんでした」とねぎらいの言葉をいただいた。歓談の後、私はわざと

お二人を輪転機のうなる工場へ案内した。つい先日まで、一番激しい戦意の燃えさかっ

ていた轟音の真っ只中に立って、新聞が次々と刷り上がるところをご覧になっているスナップ

を撮って、新聞に出した。皇族の訪問など、メッタになかった時代である。その写真

と記事を紙上に出すことによって、読売が180度改革されたことを内外に示す画期

的なニュースとなった。と同時に、私の務めもこれで一つのピリオドを打ったことと

なった。その上、あとで見事な背広一着をいただき、私は京都へ行って、祇園で飲み

に飲んだ。無精者の私がスマート過ぎる背広を着込んで行ったため、古馴染みたちが、

皆怪訊な顔で迎え、歓待してくれて、長かった戦いの疲れが吹っ飛んだ想い出がある。

それからは何の気兼ねもなく、日本を代表する人々が次々と来訪するようになった。

一番懐かしく想い出されるのは、吉田総理の指南役古嶋一雄翁だ。週に1、2度は必

ず話し込みに来られた。尋ねられるまま、政治、経済、外報の各部を回って集めた

最新の情報をまとめて報告する。問題があると担当者を呼んで直接説明もさせる。

そのあと社長、古嶋さん、私の三人で話し合い、結論を持って私が総理に報告に行く。

そんな時、白洲次郎さんもよく飛び込んで来た。司令部にいうべきことがあると、彼

はその場から「ジロースピーキング……」といって、社長の電話を取り上げ、その場

から飛んで行くこともあった。

開戦前夜の駐米大使、野村吉三郎大将は、いつもアメリカの要人たちから来た手紙

や論文などを持って現れた。もっぱら国際関係のあり方について、意見交換に来られ

た尾崎咢堂さんは憲法草案を自分で作って、頑として自説を曲げず、ついに私と大喧

嘩となったこともあった。社長はいつの場合も聞き役で二コニコと見物していた。怒

り狂って帰った時の尾崎さんは、あとで何を想ったか、軸を書いて秘書に持たせてよ

こした。激論するたびに尾崎さんの軸がふえていったのも、微笑ましい想い出である。

 かくして、わが社長室は、あたかもシャドウ・キャビネットの観を呈するようにな

っていった。吉田総理は大臣の首のすげ替えが趣味のようだった。ご自分ではあまり

面識がないので、その相談がよく回ってきた。切るのも、はめ込むのも、たいてい社

長室で取り仕切った。それが次第に知れ渡って、大臣病患者が次々と顔を出すように

なり、新任は必ず社長に敬意を表しに来た。………

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