チームの歴史

創生期   80年代初頭にトーカイオートのツーリング仲間と鈴鹿8耐を観戦し、いつかこの夢舞台に参戦することを夢見る。
手始めに、中古のTZ250を購入し、鈴鹿サーキットへ通う。
 当時、トーカイオートには「モトクロス」と「トライアル」のチームは存在したが、ロードレースチームはなく、唯一、キース・コードの「ロードレース入門」をバイブルとする。
 レース活動開始の翌年の4時間耐久に、なななんとイタリア製マシンのベネリ250クワトロ(4気筒)で参戦する。当然、レースパーツなどなく、タンクはRS250用を改造、シートは手作りFRP,カウルは市販のハーフカウル、タイヤはミシュランのM38の市販タイヤという使用になった。
 さすがにチームで集合マフラーを作成する技術はないので、近所の4輪チューナーの「シグマ」(現在のサード SARD)に制作以来をする。
 当時の4耐は、シングルの250、400の2気筒など多様なマシンが参加しており、和気あいあいとした雰囲気がサーキットにはあった。
 そんな中で、チームマシン「ベネリ」にはキャブのセッティングジェットもなく、スプロケットもノーマルのままで4耐に参戦。
 結果、S字やヘヤピンでは他車についていけるが、立ち上がりから高速では離される一方で、スプーンを立ち上がって6速に入れたら、第1コーナーまで6速のまま。(当時、最終シケインは無い)。当然ながら予選落ちをした。
 翌年は、GPZ400で参戦するが、油温が上がりすぎてエンジンがだめになりまたまた予選落ちをする。

 余談ではあるが、当時の鈴鹿サーキットの練習は「午前は2輪」「午後は4輪」といった大雑把な区分であり、2輪の練習走行はそれこそプロダクションの125からGP500マシンまで混走であった。現在のCピットあたり?からタイムカードを押してコースINするのだが、ピットイン時にタイムカードを押し忘れると大変なことになった。
 それは、総走行時間はタイムカードで管理されていたので、ピットインでマシンセッティングをしている時間は走行時間に含まれないので、タイムカードを押し忘れるとその時間分まで走行時間に換算され、多額の走行料金を支払う羽目になるのだ。

 思い出深いシーンといえば、TZ250でダンロップを走行中に、ヤマハの高井幾次郎選手と金谷秀夫選手のTZ500に両サイドからブチ向かれたこと、ヘヤピンで突っ込みすぎて、ホンダの木山賢吾選手のラインを塞いで木山選手ににらまれたこと。
 第2期  第1期のチーム員はそれぞれレース活動を休止するなか、後輩達がナガサカレーシングを継続する。
 TZ250もアルミフレームになり、排気デバイス(YPVS)もつき、レーシングマシンとして毎年進化していった時代であった。
 このころから大バイクブームが起こり、鈴鹿サーキットでの練習走行の予約が取れない状況が起こる。レースや練習の当日の朝6時には通称サーキット通りにトラポンの列が延々と並んでいた。
 8耐にも15万人もの観戦者が訪れ、グランドスタンドから3コーナーへの道は、人で渋滞してなかなか行けなかった。
 当時は4耐とは別に、6時間耐久レースがあり、8耐開催の前週に行われていた。
この6時間耐久レース参戦を最後にチーム活動に完全に終止符を打つ。
 復活

夢に
向かって

 2004年の年の暮れも押し詰まったトーカイオート恒例の忘年会での事である。久しぶりに野田君と再開することとなる。 開口一番野田君が「俺、もう一度レースがしたい。8耐に出たい!」と。「こっこいつ、何いってるんだ!?」「年齢を考えたか?」と私なりに再考を促したが、本人の意志は固く、私も覚悟を決めた。「よし!やろう。8耐を目指そう!」。
 こうしてナガサカレーシングは中年オヤジ達の夢に向けて復活をした。
 当初は野田と私(藤井)でスタートし、レース開催日だけ友人の応援を頼んだ。過去にレース活動をしていたといえ、当時と比べて現在のマシンはとてつもなく速く、セッティングもそれなりの知識が必要であり、一から勉強し直しとなった。
 復帰最初の05年の4耐は21位、翌06年は5位入賞、07年は7位、そして今年08年は5位入賞と確実に夢に向かってステップアップしてきた。
 この中年オヤジ達の夢に共感した人たちが次々とチームに参加してきた。
最初、トーカイオートのレース観戦企画で訪れた佐々木幸二君は06年からライダーとしてレースに参加。
 翌07年にはトーカイオートのHPで’07 ZX6Rの写真を見つけ埼玉から謝敷宗一郎がレースをしたいと連絡をしてくる。
 こうして、現在ではライダーが野田、佐々木、謝敷の3名となり、チームスタッフも増えた。
 いま、ナガサカレーシングは、夢に向かって動き出した。



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